国鉄バス
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国鉄バスのシンボル「つばめマーク」省営自動車時代からのシンボル「動輪マーク」

国鉄バス(こくてつバス)とは、日本国有鉄道自動車局が運営していた自動車事業および路線のことである。

日本国有鉄道自動車局が運営していた自動車による旅客および貨物輸送の事業のことを指す。バスによる旅客輸送の他、1970年代まではトラックによる貨物輸送も行われていたが、一般的には「国鉄バス」の呼称が定着していた。

公共企業体である国鉄は、鉄道以外の事業は鉄道に付帯する事業しか行うことができなかったことから、鉄道予定線の先行、鉄道線の代行、鉄道線の培養、鉄道線の短絡を主目的として路線を開設、運営していた。なお、名神高速道路の開通に伴う名神高速線運行開始以降、鉄道線の補完も目的として加わった。詳しくは後述する。

1987年(昭和62年)4月1日に実施された国鉄の分割民営化により、国鉄の自動車事業は鉄道事業ともに、新設された旅客鉄道会社に引き継がれた。以降についてはJRバスも参照のこと。
事業形態

事業は国鉄自動車局が担当し、下部組織として全国を9つの自動車局および自動車部を置き、管理していた。その下部に自動車営業所を設け、各路線を管理した。鉄道線と同格で扱われている事例。白棚線は自動車路線であるが、乗り換え案内に自動車路線である旨の記載はない

国鉄の営業上、鉄道・自動車・船舶は運賃体系は違うものの、同格として扱われていた。乗車券を発売する際の計算方法は連絡運輸に準じていたが、乗車券の発行においても連絡運輸としては扱われなかった。このため、青函連絡船が航行していた頃には、「十和田湖 - 函館」(国鉄バス・青函連絡船利用)という、国鉄の乗車(船)券でありながら、鉄道を介さないものも存在していた。

路線沿線の主要地域には鉄道駅と同等の業務を行うことを目的として、自動車駅(バス駅)と呼ばれる施設を設けた。自動車駅では当該駅から国鉄全駅への乗車券を発売し、手荷物・小荷物貨物の取扱いも行っていた。なかには貨物専用の自動車駅も存在した。厳密に言えば、現行のバス路線における「運賃区界停留所」も停車場扱いとなり、国鉄線駅と重複する国鉄バスの停留所に旧国名令制国)や路線名(近城岡崎、日勝目黒など)を被せたのはこの理由による。自動車駅を含む国鉄のすべての駅には国鉄自動車運賃表(タリフ)が常備してあり、指定された駅までの乗車券を発行することができた。

なお、国鉄バスは国鉄の一部ではあったが、時刻表においては私鉄や民間バスなどと同じページに掲載されていた。この点は、現在のJRバスにおいても同じである。ただし、並行する国鉄の鉄道線を補完する路線については、列車時刻と併載する事例も見受けられた。日本交通公社『国鉄監修 交通公社の時刻表 1981年8月号』を例にすると、吾妻線に渋川線の自動車便が、札沼線には石狩線の自動車便を、日高本線では日勝線の自動車便の併載が行われていたほか、東海道・山陽新幹線のページの最後の片隅にドリーム号の時刻も記載されていた。当時の国鉄が、「ドリーム号が新幹線の補完交通機関である」という認識をはっきりと示していた事例といえる。

貸切バス事業に関しては、資本力の違いによる民業圧迫を避けるため、免許区域は国鉄バス路線が運行されている沿線の市町村に限定され、国鉄バスの路線が無い市町村での営業は認められなかった。そのため、路線が廃止され、貸切免許区域取消となった市町村もあった。
国鉄自動車の5原則

路線は目的別に分類されていた。その分類を以下に記す。
先行
鉄道敷設法に記された予定線などの鉄道路線を敷設する計画がある区間において、鉄道が完成するまでの暫定的な交通手段として国鉄バスを運行する形態をいう。そのまま鉄道が建設されずに終わった区間も多いが、鉄道路線が開業してバス路線が廃止されたケース(例:窪川線)や、鉄道路線開業後もしばらくバス路線が存続した例[注 1] もある。
代行
先行線に似ているが、鉄道路線を敷設する計画がある区間において鉄道としての採算が見込めないことから鉄道の代わりとして運行するもの(例:阪本線)や、不要不急対応や合理化のため鉄道の路線を撤去し、代わりに国鉄バスを運行するものが該当する。変わった例としては、安芸線のように鉄道の複線化に代わる輸送力増強策として開設された例や多古線のように南方軍需による私鉄撤去の補償代行として開設された例もある。
培養
旅客や貨物を集めることを目的に、鉄道駅から離れた町と鉄道駅を結んだもの。あるいは駅増設が困難な鉄道駅間の街と鉄道駅を結んだもの(例:札樽線浜名線)。加えて観光地の発展・振興を目的にその地域から請願されたり、計画をして国鉄バスが運行するもの。なお、鉄道が敷かれていない島(屋代島(周防大島))に路線を持っていた唯一の例である大島線については、国鉄大島航路の小松港駅と連絡することによって、培養の役割を担っていた。
短絡
鉄道利用では遠回りとなる2駅間にバス路線を設け、ルートの短絡を図ったもの。(例:2番目の省営自動車路線「三山線」として開業した防長線の防府 - 山口間)
補完
国鉄の鉄道線の並行道路上の路線。あるいは鉄道と共に組み合わされて幹線交通網の一環を成すべき路線。元来は東海道新幹線の補完を目的として開設した東名名神のハイウェイバスの他、北四国急行線関門急行線のような一般道経由の路線も開設された。
沿革
創業期省営バス岡多線開業(1930年12月20日)1930年に運行を開始した瓦斯電製省営自動車岡多線の車両。2002年撮影。(旧)交通博物館、鉄道博物館を経て、現:リニア・鉄道館所蔵

そもそも、国鉄が自らの手でバス事業を行うきっかけとなったのは、鉄道敷設法1922年大正11年)に大幅改正され[1]、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられたことといわれている。しかし、法改正前に木下淑夫が危惧したように、それらの予定線は輸送量が少ない地区にある上、建設費用も多額になると予想された。

このため、輸送量の少ない地域においては、鉄道の補助・代行機関として、既設の道路を利用して自動車運輸事業を行うべきという意見が起こることになり、1929年昭和4年)には鉄道省(当時)に自動車交通網調査会が設置されることになった[2]

この調査会が、全国78路線の自動車交通網の答申を行ったことを受け、鉄道省では自動車運輸事業を行うことを決定した[2]。この時、使用する車両は国産自動車とする方針も決定されたが、これはようやく成長を始めた国内自動車製造業の振興という側面もあった[2]。こうして、1930年(昭和5年)に省営自動車岡多線の運行が開始された。当初の規模はバス7両・トラック10台であった。

1932年(昭和7年)には鉄道省運輸局に自動車課が設立され、翌1933年(昭和8年)には鉄道の付帯事業という位置付けだった省営自動車事業は「鉄道に関連する国営自動車事業」と改められ、運営基盤が確立されることとなった。1934年(昭和9年)には、政府の経済不況対策として観光事業の拡大を提唱したものを受けて、観光路線である十和田線の運行を開始している。

これ以後も、各地で自動車路線の拡大が行われた。特に中国地方では陰陽連絡路線の先行となる長距離路線が相次いで開設されたほか、四国九州地区では1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)までの3年間に12路線が開設されている。逆に、北海道では戦時体制になるまではあまり大きな動きはなかった。

1940年(昭和15年)時点での営業規模は、バス550両・トラック299両、営業キロは約2,600キロメートルであった。

1930年昭和5年)12月20日 - 岡崎駅 - 多治見駅間・瀬戸記念橋駅 - 高蔵寺駅間にて省営自動車岡多線の運行を開始[3]

1931年(昭和6年)5月 - 山口駅 - 三田尻駅間にて三山線の運行を開始[4]

1932年(昭和7年)3月 - 亀山駅 - 三雲駅間にて亀三線の運行を開始[5]

1933年(昭和8年)

1月20日 - 安房北条駅 - 千倉駅間にて北倉線の運行を開始[6]


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