国鉄キハ80系気動車
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国鉄キハ80系気動車
特急「おおとり」(1986年)
基本情報
運用者日本国有鉄道
北海道旅客鉄道
東海旅客鉄道
製造所日本車輌製造新潟鐵工所帝國車輛工業富士重工業東急車輛製造近畿車輛[1]日立製作所[1]汽車製造[1]川崎車輌[1]
製造年1960年(キハ81系)
1961年 - 1967年(キハ82系)
製造数384両
運用開始1960年12月10日
引退2002年10月14日(トマムサホロエクスプレス)
廃車2009年3月31日
主要諸元
軌間1,067
最高速度100 km/h
車両定員40人(キハ81) / 52人(キハ82)
72人(キハ80) / 48人(キロ80)
40人(キサシ80)
36人(キシ80)
自重42.2 t(キハ81)
42.0 - 44.3 t(キハ82)
40.2 - 41.2 t(キハ80)
41.1 - 42.3 t(キロ80)
38.2 t(キサシ80)
43.0 t(キシ80)
全長21,300 mm (キハ81)
21,100 mm (キハ82、キハ80、キロ80、キサシ80、キシ80)
全幅2,903 mm
全高3,910 mm
台車DT27/TR67 → DT31B/TR68A(キハ81系)
DT31A/TR68 → DT31B/TR68A(キハ82系)
動力伝達方式液体式
機関DMH17H
機関出力180 PS / 1,500 rpm × 1基(キハ81、キハ82)
180 PS / 1,500 rpm × 2基(キハ80、キロ80、キシ80)
変速機TC-2A/DF115A
変速段変速1段・直結1段
制動装置電磁自動空気ブレーキ (DARS)
保安装置非常時交互点滅灯・ATS
備考^ a b c d キハ81系のみ。

第4回(1961年ブルーリボン賞受賞車両※「はつかり」用キハ81系の受賞
第30回(1987年ブルーリボン賞受賞車両※「フラノエクスプレス」の受賞
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国鉄キハ80系気動車(こくてつキハ80けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が開発した特急形気動車。系統としては、1960年(昭和35年)に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系グループ26両と1961年(昭和36年)以降に製造されたキハ82系グループ358両の総称で、基本構造の多くを共通とするため本項において一括して解説する。
概要

日本における初の特急形気動車であり、1967年(昭和42年)までに384両が製造され、日本全国で広く特急列車に用いられた。

1987年(昭和62年)の分割民営化時には、北海道旅客鉄道(JR北海道)と東海旅客鉄道(JR東海)に継承され、一部はジョイフルトレインに改造された。

JR東海所属車両が1992年平成4年)まで特急列車として定期運用された後、約2年半の間は臨時列車で運用され、1995年(平成7年)1月が最後の運転となった。同年2月以降は美濃太田車両区で長らく4両が保存車として在籍していたが、2009年(平成21年)に在籍する全車が廃車となり系列消滅した。

四国を除く日本各地に配備され、その地方を代表する特急列車として長らく運用されたことから、各地に静態保存車が十数両存在する。早期に廃形式となったキサシ80形以外のすべての形式が保存されており、営業当時の基本編成に近い状態での保存例もある。
登場までの経緯
1950年代の国鉄特急列車網

1912年(明治45年)に日本最初の特急列車新橋 - 下関間に運転開始されて以来、国鉄の特急列車は東海道山陽本線に限定される形で運行されてきた[注 1]

太平洋戦争終了後もその傾向は変わらず、1958年(昭和33年)までは東海道・山陽本線と鹿児島本線の一部に限って特急が運行されていた。

1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時の意識では地方路線に運行すること自体が論外であった。戦後間もない時期は、旅客の速達需要そのものが21世紀初頭の現代に比べて遙かに低く、戦前から沿線に大都市を擁していた東海道本線を除けば、急行以上に速い特急列車を設定する必然性が低かった。

また電化についても、1956年(昭和31年)に東海道本線が全線電化完成したほかは、幹線の長距離電化区間は1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)にかけて完成した高崎上越線上野 - 長岡間に限られていた。したがって当時、多くの路線は蒸気機関車によって運行される非効率な状態であり、従前の急行列車に比して大きく速度向上する手段は、編成両数を極端に減ずるか、停車駅を減らす以外に方法はなく、需要が限られる以上は特急列車運行の余地も少なく、少ない本数の急行列車で中距離客・長距離客いずれにも対応しなければならなかった。

また1958年までは、特急用車両と急行用車両の明確な区別もされておらず[注 2]、明確に特急専用と評し得たのは1等展望車と一方向き固定の2人がけシートを備えた3等車(現・普通車)のスハ44系に限られていた。

だがそれらも専ら東海道線昼行特急と山陽線特急「かもめ[注 3]」の限られた運用しか存在せず、1956年(昭和31年)から東京 - 博多間に運転を開始した戦後最初の夜行特急「あさかぜ」の3等車座席は急行列車並みの4人がけボックスシートであるオハニ36形10系客車であり、その他寝台車特別2等車(現・グリーン車)・食堂車についても急行列車との差異は見られなかった。
特急専用車両の出現

鉄道全体の近代化を推進してきた国鉄は、1958年秋に昼行特急用に20系電車(→151系電車→181系電車)寝台特急用に20系客車の2種類の特急形車両を登場させた。この両系列は用途も外観も全く異なっていたが、いずれも全車両に冷房装置空気ばね台車を備えた優秀な車両で、それ以前の国鉄車両とは隔絶した高水準の居住性と走行性能を実現していた。151系は新設の東京 - 大阪神戸間特急「こだま」に、20系客車は「あさかぜ」置換え用に投入され未曾有の成功を収めた。


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