国鉄キハ40系気動車_(2代)
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国鉄キハ40系気動車
キハ40形100番台とキハ56系普通列車
1990年
基本情報
運用者

日本国有鉄道

北海道旅客鉄道

東日本旅客鉄道

東海旅客鉄道

西日本旅客鉄道

四国旅客鉄道

九州旅客鉄道

製造所新潟鐵工所
富士重工業
製造年1977年 - 1982年
製造数888両(キハ40形392両、キハ47形370両、キハ48形126両)
主要諸元
軌間1,067 mm
最高速度95 km/h
全長21,300 mm
全幅2,900 mm
床面高さ1,240 mm
車体普通鋼
動力伝達方式液体式
機関DMF15HSA
機関出力220 PS
変速機DW10
制動装置CLE自動空気ブレーキ
備考原型車のデータ
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国鉄キハ40系気動車(こくてつキハ40けいきどうしゃ)は、1977年昭和52年)から1982年(昭和57年)にかけて日本国有鉄道(国鉄)が製造した気動車(ディーゼル動車)。

これは国鉄の車両称号規程に則った制式の系列呼称ではないが、同一の設計思想により製造された気動車の形式を便宜的に総称したものである。具体的には、キハ40形・キハ47形・キハ48形の3形式およびこれらの改造により発生した派生形式を指す。
概要

1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)にかけて計888両が製造され、日本全国各地に投入された[1]65形66・67形から設計の多くを受け継いでおり[注 1]、当時の在来一般形気動車に比し、客室設備の改善や走行機器の刷新などが図られている。一方、在来車よりエンジン出力は若干増加したものの、大柄な車体や新装備の追加などで重量も増加しており、動力性能はほとんど向上しておらず、勾配線区用の強力形も計画されなかった。

本系列は客用の片引き戸を車端部2か所に設置した両運転台のキハ40形と、それを片運転台としたキハ48形、都市近郊向けに両引き戸を車体中央に寄せて2か所に設置した片運転台のキハ47形に大別され、各形式共投入線区の気候に応じた仕様の違いと便所の有無によって番台区分される。国鉄分割民営化後は、事故廃車となった1両を除く887両がJR旅客各社へ承継された他、使用線区の事情に応じた改造が実施され、番台区分が多数生ずることとなった。また、余剰車が出始めた1990年代以降は観光列車ジョイフルトレインに改造された車両も登場するようになった。

2000年代後半以降は新形気動車への置き換えや地方線区の廃止に伴って廃車が始まり、東海旅客鉄道(JR東海)では2016年(平成28年)に全廃となった。それ以外のJR各社でも置き換えが進められ、一部の車両は私鉄・第三セクター会社や日本国外への譲渡も行われている。

キハ40系 新造時形式・番台別特徴一覧
運転台客扉形式番台区分仕向け地(仕様)枕ばねデッキ便所両数製造年メーカー
両片開きキハ40形100酷寒地空気有有15050年度3次債務 - 56年度1次債務新潟
富士
500寒地9450年度2次債務 - 56年度1次債務
2000暖地コイル無14853年度1次債務 - 56年度1次債務
片両開きキハ47形0暖地コイル無有19350年度3次債務 - 56年度1次債務新潟
富士
1000無13452年度1次債務 - 56年度1次債務
500寒地空気有2252年度1次債務 - 54年度2次債務新潟
1500無21
片片開きキハ48形0暖地・準寒地コイル有有655年度1次債務 - 56年度本予算富士
新潟
1000無4
300酷寒地空気有456年度1次債務新潟
1300無3
500寒地空気有5953年度1次債務 - 56年度1次債務新潟
富士
1500無50


酷寒地:北海道、寒地:東北・中部地方、準寒地:中部地方

開発の経緯

1950年代中期に量産された国鉄初期の液体式気動車である17系は、1970年代後半に入ると老朽化が目立つようになった[2]。17系はそのエンジンの非力さを軽量化で補う方針であったが、当時の技術との兼ね合いもあり、同時期の客車電車よりも車体断面が小さく、接客設備や台車も簡素なものとなった。そのため、1970年代に入ると早くも陳腐化が顕著となりはじめ、特に座席台車設計の不備による乗り心地の悪さは問題となっていた。17系は台車の心皿荷重上限が小さく、重量増となる座席の交換や、ロングシート化(定員増 = 荷重増)が困難で、交換用台車の新製などの改造予算確保より新車製造予算の確保が優先され、1970年代後半まで抜本的な対策が講じられなかった。

一方で1970年代の国鉄は労使紛争が激しく、組合側は労働環境の改善を強く要求していた。その一環として、国鉄車両にも安全対策整備性の改善が求められ、国鉄ではこの時期に1950年代から1960年代にかけて設計された量産形式を基本に随所を改良したマイナーチェンジ車を製造し続けていた。本系列もその方針の下に17系のほか、1950年代後半に製造された55系[注 2]20系の老朽化も視野に入れ、それらの代替用として開発された。
構造

本系列は、1974年(昭和49年)に開発されたキハ66系をベースにしており、車体や制御回路、変速機、ブレーキ方式などの基本構造は同系を踏襲しているが、搭載機関は、同系で採用された180度V型12気筒と基本設計を共通化しつつ、直列6気筒として出力を半分に落とし、当時の国鉄の技術力・予算に見合った設計としている。また、国鉄時代には全国で大規模な車両の配置転換を行っていたことから、暖房ラジエーターなど酷寒地向けを基本として設計された箇所が多く[要出典]、温暖地で寒地向け車両が使用される場合は過剰装備となる[注 3]

なお、本系列ではそれまでの気動車のように北海道向け車両を別形式とせず、初めて同一形式内での番台区分としたのも特徴である。
車体
構造・外観

全長21.3 m(車体長20.8 m)、幅2.9 mで既存の急行形気動車同等の大型車体である。酷寒地や海岸沿いでの使用を考慮して[要出典]外板、屋根板、床板には当時の鋼製車両標準の車両用耐候性高張力鋼板 (SPA) を用いて耐久性を向上させている。板厚は例えば同じSPAを使用した201系電車と比較すると、外板厚が2.3 mmに対して国鉄気動車標準の1.6 mm、屋根板厚は1.6 mmに対して1.2 mmと薄く、台枠に設けた軽量孔とともに軽量化に配慮している。製造当初の車体塗装は「首都圏色」と呼ばれる朱色5号一色であった。

前頭部形状はキハ66系を踏襲し、踏切事故対策として高運転台化、運転室長さの350 mm拡大、前面外板の4.5 mm厚への強化、床下前面へのスカートの装着が行われている。運転台窓は運転席からの視認性に配慮して側面部に回り込んだパノラミックウィンドウとし、前照灯は前面窓上にRBS-24V形150/50 Wシールドビームが2灯、尾灯は在来形気動車よりも高い位置に40 Wのものが2灯、それぞれ左右に振り分けて設置され、貫通路直上には列車種別表示器が設けられている。側窓は寒地形、暖地形は外はめ式のアルミ合金製2段ユニット窓として工数を削減している。一方、酷寒地形は、キハ22形で初採用された幅930 mmの1段上昇窓で、FRP製窓枠による内窓を組み合わせた二重窓構造とし、冬季の車内保温を図っている。
設備

キハ40形、キハ48形は車体両端2か所に1 m幅の片開き扉、キハ47形はやや車体中央寄り2か所に1.3 m幅の両開き扉を設けており、いずれもステップ付の半自動扉である。ドアエンジンは両開き式はキハ45形と同じTK106形、片開き式はキハ46形と同じTK105形で、在来車のような半自動式用ではなく自動式用ドアエンジンの指令回路を変更して半自動動作としており、人力での開閉はやや重い。キハ40形、キハ48形の寒地・酷寒地形は客室と出入り台の間に仕切り扉を設けたデッキ付きとし、寒冷時の保温を図った。

運転台は機器配置・座席形状とも人間工学を取り入れた設計である。また、投入線区の運用実態に即し、側面にはタブレットキャッチャーと、勢いのついた重い玉から、車体、窓ガラス、乗客を守る防護板または防護枠を設け、タブレット閉塞式での通過運転に対応した。


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