国鉄キハ04形気動車
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鉄道博物館に展示されているキハ41307(筑波鉄道キハ461を製造時の姿に復元

国鉄キハ04形気動車(こくてつキハ04がたきどうしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した、一般形機械式ディーゼル動車である[1]

ここではその前身である鉄道省キハ41000形と同系のキハ05形キハ06形、および改造により派生した各形式を合わせて解説する。

キサハ04形とキハ41000形の姉妹車両である鉄道省キハ40000形についてはそれぞれの項目を参照。
概要

本形式は1932年昭和7年)に鉄道省が設計し、1933年(昭和8年)に竣工したキハ36900形(竣工直後の称号改正でキハ41000形)を第一陣とする一連の16 m級機械式気動車シリーズを、太平洋戦争後の機関換装によりディーゼル動車化し、形式称号を変更したものである。

設計全般は鉄道省によるものだが、その構造・機構面での基本となったのは、これに先立って日本車輌製造(日車)本店が開発した、日本初の18 m級ガソリンカーである江若鉄道C4形1931年製造)などの私鉄向け大型気動車であり、その影響は、4枚窓構成の前面窓、型鋼と薄板を多用して軽量化された車体、菱枠構造の軸ばね式台車、それに駆動メカニズムなどに、顕著に現れている。これらは日本車輌製造が1920年代末期から試行錯誤を繰り返した末に実用領域に到達したものであった。

しかし、鉄道省36900形には日本車輌式のシステムやノウハウ、あるいは設計がほとんどそのまま導入されているにもかかわらず、鉄道省・国鉄側の設計担当者はこれについて一切言及していない。そればかりか、日本車輌製造が特許や実用新案を保有していた設計や機構について、鉄道省がその使用料を支払った形跡は発見されていない。

気動車の分野に限らず、鉄道省および後身の日本国有鉄道の技術陣には、日本国内での圧倒的な最大手ユーザーという強い立場もあって一種の官尊民卑意識が強く、民間メーカーの独自開発技術をそのまま導入した場合でさえ、そのことに言及しないか「共同開発」という表現で実態を曖昧にする事例が少なくなかった。当時の設計担当者・北畠顕正は、キハ36900形開発から60年余りを経た最晩年にインタビューを受けたが、日本車輌製造からの技術導入・援用についてはまったく言及せず、その全てを鉄道省で開発したかのように証言している[2]

1936年(昭和11年)までに138両が新造されたキハ41000形、および試作ディーゼル機関搭載車であるキハ41500形(初代)2両の計140両は、木炭ガス発生炉を搭載して代燃車として運行された一部を除き、戦時中の燃料統制で一時使用を停止されていたが、戦後になって一部が天然ガス動車化の上で復活した後、燃料事情の好転を受けて1950年(昭和25年)以降、機関を各種新型ディーゼルエンジンへ換装しディーゼル動車として再生された。

その結果これらは使用燃料や搭載機関の相違から、一旦キハ41200形・キハ41300形・キハ41400形・キハ41500形(2代目)の4形式に細分された。
構造
車体車内(鉄道博物館キハ41307)

窓配置1D (1) 14 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:側窓数)、車体長15,500 mm、車体幅2,600 mm(乗降用ステップを含む最大幅は2,650 mm)、全高3,535 mmの半鋼製軽量車体で、各部には型鋼が多用された。その形鋼組立台枠は客車のような車端衝撃入力は考慮せず、垂直荷重のみを考慮した設計としており、また補強用の当て板の類を極力廃し、特に強度を要する台車枕梁上部・機関吊り下げ部以外は溶接組み立てとした[3]。結果、自重は鉄道省公称値で約20 tと、設計当時の鉄道省制式車両では異例の軽量設計であった。製造を担当した日本車輌製造が発行したカタログでも自重20.09tと記載されており、実測値に即した公称値であったことが分かる。

側窓は木枠による2段上昇式で戸袋窓と客用扉にも横桟があり、プラットホームの高さが低い地方線区での使用を前提として、客用扉は1段ステップ付きであった。前面窓は先行した江若鉄道キニ4に倣ってこちらも2段上昇式の4枚窓構成で、運転席のレイアウトの都合もあり、窓幅は左右両脇が500 mm、中央寄り2枚が580 mmと中央部がやや幅広とされている。

前面は空気抵抗低減のため半流線型が採用された[4]。屋根は木製帆布張りで、軽量化のために雨樋が省略され、扉上部に水切りが取り付けられた。

車内は混雑を考慮して扉付近をロングシートとするセミクロスシートとなった[4]。戸袋部がロングシート、それ以外が対面式配置の背摺りの低い固定式クロスシートで、ロングシート部には吊革が設けられていた。定員は109名である。

塗装は竣工当時はぶどう色1号で、配置・時期により赤帯の有無があった[2]。この際、当時試行されていたラッカー塗料を用いたものには正面に「ラ」の文字が記入されていた。ぶどう色1号の時期は短く、塗装規定変更により1935年(昭和10年)以降、キハ42000形同様、上半黄かっ色2号、下半青3号の2色塗り分けに変更された[5]
主要機器
機関運転台(鉄道博物館キハ41307)この個体は液体式変速機搭載に改造されており、ブレーキ弁および手ブレーキハンドルを除いては、液体式用主幹制御器、計器類をはじめ、新造時とはレイアウトを異にする

エンジンは鉄道省が民間メーカーと共同で設計した連続定格出力100 PS (90kW) /1,300 rpmのGMF13[注釈 2]を搭載する。GMはガソリンエンジン、Fは6気筒(Aから数えて6番目)、13は総排気量13 Lを意味する[6]

この機関は当時江若鉄道などの私鉄が採用していたウォーケシャ社 (Waukesha Motor Co.) [注釈 3]製の「Big Six」こと6RB(連続定格出力105 PS/1,300 rpm)[注釈 4]などの輸入大型機関に代わるものとして、それらに比肩しうるスペックで設計された国産品である。日本のエンジン技術が十分な水準と言えなかった当時、あえて自国開発設計のエンジンを採用したのは、国産化を重視した鉄道省の方針を反映したものといえる。構造面では、当時相前後して鉄道省も開発に関わったバス・トラック用大型シャーシ「商工省標準型式自動車」(のちの「いすゞ・TX」車の前身)用に石川島自動車が開発した6気筒ガソリンエンジン「スミダX型」との近縁性が指摘されている[7]

シリンダブロックが肉厚なこともあり、出力の割には比較的重いエンジンである。これは、当時のガソリンエンジンは一般に摩耗対策が進んでおらず、シリンダ内部の摩耗が速かったため、シリンダ摩耗後にこれを削正(ボーリング加工)、新たなライナーを打ち込んでさらに再削正する再生措置が常識化しており、最初からその削りしろを考慮したつくりにされていたのが一因である[注釈 5]。エンジン側面に装備されベルト駆動される空気圧縮機は、比較的小容量な2気筒式のC-420であった(名称はのち容量相当の端数を切り捨てたC-400となり、液体式気動車にも使用された)[9]

キャブレターは大型のアップドラフト式を1基装備とする平凡堅実な手法で、初期にはアメリカの著名なキャブレターメーカーの一つ、ストロンバーグ製「UT-5」を装備し[注釈 6]、その後、1932年(昭和7年)に設立された新興の国内メーカーである日本気化器がほぼコピーした同等品「トキハ」に切り替えている[10]。サイドバルブエンジン側面の低い位置にキャブレターを配置する構造のため、燃料は床下吊り下げの300Lタンクからポンプなし、フィルターを介するのみの配管で重力供給された[11][注釈 7]

補機類の中で唯一、点火プラグのみは国産化できず、輸入部品のボッシュ社製点火プラグが純正指定品となっていた。鉄道省は廉価に安定供給可能でかつ国内産業育成に資する国産品採用を原則としていたため、あえて高価な輸入品を選択したことは、国産点火プラグの品質水準がいかに不十分であったかの裏返しといえる。十分な性能と品質の点火プラグを量産できなかったことは、当時の日本製ガソリンエンジン一般の最大のウィークポイントであった[注釈 8]。その他の電装系補機類については点火コイルも含め、ボッシュの設計を模した芝浦製作所、東亜電機(1937年日立製作所に合併、同社戸塚工場となる)の製品を装備していた[13]

GMF13は当時の日本の工業水準が反映され、実用性ではウォーケシャ6RBに大きく劣り、特に低温時の始動性に問題があった。このため、輸入エンジンに比肩する大型エンジンとして鉄道省以外の外地鉄道路線や私鉄路線に導入された事例もあったものの、寒冷地では樺太庁鉄道をはじめ、発注時にGMF13を避けてウォーケシャ6RBを指定する事業者や、一時国産機関を採用したもののすぐに輸入機関に戻す事業者が少なからず存在した。


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