国鉄オハ35系客車
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西日本旅客鉄道が2017年に導入した「JR西日本35系客車」とは異なります。

国鉄オハ35系客車
オハフ33 48
基本情報
運用者鉄道省日本国有鉄道
製造年1939年 - 1950年
主要諸元
軌間1,067 mm
全長20,000 mm
全幅2,900 mm
制動装置自動空気ブレーキ
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オハフ33 471

国鉄オハ35系客車(こくてつオハ35けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した、車体長20 m級鋼製客車の形式群である。

なお、「オハ35系」の呼称は国鉄が定めた制式の系列呼称ではなく、1939年昭和14年)に製造が開始されたスハ33650形(のちのオハ35形)と同様の車体構造をもつ制式鋼製客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。
概要

1929年(昭和4年)に製造が開始された鉄道省制式20 m級鋼製客車である、スハ32系客車の改良型として、1930年代後半より各車種が製造された。戦時輸送体制への移行で1943年(昭和18年)に一旦製造が打ち切られたが、戦後の1946年(昭和21年)から製造が再開されている。

基幹形式である三等座席車(オハ35形)は1939年(昭和14年)が製造初年であるが、同様の構造を備える車両としては優等車が1936年(昭和11年)より先行製作されており、しかも優等車であってもスハ32系の仕様のままで、オハ35形量産開始後も長期に渡って製造が継続した形式があるなど、単一年度で一気に切り替えられていない。また仕様面でも設計・製造技術の進展に従って、漸進的に設計の改良が実施されたため、後年の20系などのように「系列」が明確に区分可能な客車形式とは異なり、スハ32系と本系列ではその境界は明確ではない。

したがって、本項目およびスハ32系の項目に記載された各形式群については、そもそも当事者である鉄道省およびその後身である運輸省・日本国有鉄道自身は、これらについて何らグループ分けは行っておらず、あくまで趣味的・便宜的な見地から狭幅(700 mm以下)の側窓をもつ車両をスハ32系に、広幅(1,000 mm以上)の側窓をもつ車両を本系列にそれぞれ機械的にカテゴライズしている。
車体

構造面ではスハ32系の基本構造に従いつつ全面的な設計のリファインが実施されているのが特徴である。従来600 mm幅が標準であった側窓が1,000 mm幅を標準とするように変更され、室内の採光性の向上と窓枠の製造工程の削減が両立した[1]。また台枠などを中心に過剰な補強材の省略が進んで軽量化され、基幹形式である三等座席車では重量区分の1ランク引き下げが実現した。従来リベット接合が多用されていた組み立てについても溶接への移行が進められた。

ただし、その量産が戦前と戦後にまたがって長期に渡って継続された結果、その車体構造は製造時期によって大きく異なるものとなった。

特に戦後形では大きな変化が見られ、1946年(昭和21年)度発注分はほぼ戦前と同一の仕様であったが、以後は製作の容易化などを目的として順次仕様変更が行なわれ、車端の出入台部で屋根が絞られ3面折妻となっていたものが、外妻アーチ桁の設計を変更することなどで出入台部の絞りを残したままで切妻化され、さらに長桁の絞りがなくなり雨樋が直線になるなどの変化が生じた。その妻面形状から鉄道ファンの間では「キノコ折妻」と通称される[2]

なお、本系列については戦前には1941年(昭和16年)度まで北海道向けが製造されず、窓の開閉時に開口部を最小限に抑えられ防寒の点で有利な狭窓のスハ32形とスハフ32形(いずれも二重窓仕様)が継続生産されたが、以後はこれに代えて本系列が北海道向けとして製造されている[注 1]

台枠は当初スハ32系の本州向け最終グループ(1938年〈昭和13年〉度発注分)の構造を継承するシンプルな設計の溝形鋼通し台枠であるUF38(2軸ボギー車)・UF51(3軸ボギー車)が採用されたが、その後車載蓄電池の設計変更による取り付け座の小型化でUF116(2軸ボギー車)などに変更されている。
主要機器
台車TR23形台車 (オハフ33形:ただし振り替えられており、これは本来スハ32系に装着されていた最初期型〈図面番号VA3058〉)TR23形台車 (オハフ33形:1931年〈昭和6年〉以降製造の一般型〈図面番号VA3062〉)TR34形台車(オハフ33形:1931年〈昭和6年〉度以降製造のTR23と酷似するが、軸受の構造や寸法が異なり、軸箱守の下辺部の形状が変更されていることに注意)TR40形台車:左側に歯車式車軸発電機をもつ北海道向け仕様(オハ36形)
ペンシルバニア形軸ばね式台車

戦前製造グループはスハ32系の設計を踏襲し、2軸ボギー車はTR23、3軸ボギー車はTR73を装着する。

いずれも頭端部にコイルばねを内蔵する鋳鋼製軸箱部と、形鋼の加工品による側枠を組み合わせ、中央部に短リンク式の揺れ枕吊りを下げてここでボルスタからの荷重を重ね板ばねを介して受け止める構造の、いわゆるペンシルバニア形の軸ばね式台車である。

この系統の台車は軸箱間を連結する釣り合い梁(イコライザー)をもたないため、軌道条件の特に劣悪な線区での追従性や乗り心地では若干見劣りした。その一方で台車枠が一般的な形鋼と鋳鋼製部品で構成されており、材料の調達に制約がほとんどなく、ばね下重量の減少で軌道破壊を抑止でき、さらに邪魔なイコライザーがないため消耗品であるブレーキシューの交換時にピットに潜り込む必要もないという、製造保守などの面で極めて有利かつ重要な特徴があった。

もっとも、その反面この系統の台車は軸箱部と側枠の接合部分の設計や工作が難しく、例えばTR23の場合、1929年(昭和4年)のスハ32600形を筆頭とするスハ32系第一陣の製造時に設計された第1世代のもの(図面番号VA3058)では大荷重時などに接合部の強度不足から軸箱部が線路の外側に飛び出す方向に徐々に開いて行くという現象が多発することが就役後の検査で判明した。この問題を解決するため、1930年(昭和5年)以降に製造されたタイプ(図面番号VA3062)では接合部の設計変更で変形を防止するように改良されている。

このように初期にはマイナートラブルも発生したが、戦前には本系列をはじめとする客車だけでなく、電車や一部の電気式気動車にまで、細部仕様を変えつつこれと同種の構造を備える台車が幅広く採用された。戦後製造グループではTR23の基本構造を変えずに、軸受を従来の平軸受からコロ軸受に変更したTR34に移行した[注 2]
ウィングばね式台車

しかしその後、乗り心地の改善を目的として軸ばねを複列化し、側枠全体を一体鋳鋼製とした[注 3]ウィングばね式鋳鋼台車であるTR40[注 4]に移行し、TR40をベースにブレーキワークを変更の上、ばね定数の見直しや防振ゴムの挿入などを行ったマシ35・カシ36形用TR46を経て、次代のスハ43系用TR47に至る一連の国鉄客車用鋳鋼製ウィングばね式台車の端緒となった。

このTR40では剛性に優れる一体鋳鋼製側枠の採用と、軸ばねの複列化とばね高さの増大によりばね係数を大きく引き下げることが可能となるウィングばね式軸箱支持の採用、さらには揺れ枕吊りの延長で揺動周期が延びて乗り心地が大きく改善された。当時日本を訪れた中華民国の視察団がこの台車を装着した車両に試乗し、その乗り心地の優秀さを激賞したと伝えられており、以後日本のメーカーに発注された台湾鉄路局向け客車では、これと同種の構造を備えるウィングばね式台車が長期に渡って標準採用された。

その一方で台車の重量が増え、1ボギー分総重量がTR23は5.1 t、TR11は4.5 tであるのに対してTR40で6.1 t、TR47に至っては6.3 tに達した。各車の換算両数やばね下重量も増大するというデメリットも存在し、TR47では鋳造技術の発展もあって側枠の軽量化が行われ、さらに増備途上でウィングばね部が軽量型に設計変更されるなどの対策が講じられている。
ブレーキ

従来通りA動作弁によるAV自動空気ブレーキ装置が採用されており、車体床下中央に装架された1組のブレーキシリンダーから各台車にロッドでブレーキ力が伝達される車体シリンダー方式であった。
戦前新製車

カッコ内に1941年(昭和16年)の称号改正前の形式を示す。戦後の電気暖房装置設置車は原番号に2000を追加。
二等車
オロ36形(スロ30960形)

特急「」を筆頭とする主要幹線の優等列車に用いられる二等車として、1938年(昭和13年)と1939年(昭和14年)に日本車輌で合計38両が製造された。

このうち1937年(昭和12年)度予算で落成した 1 - 5は台枠にUF37を、1938年(昭和13年)度予算で落成した6 - 38はUF38を使用した溶接組み立ての車体を有し、台車はTR23を装着する。

座席定員は当時の20 m級二等座席客車の標準である64名であったが、本形式製造開始後も亜幹線用として増備が継続した先行形式であるスロ30850形(オロ35形)が転換クロスシートを採用し700 mm幅の狭窓が並ぶ伝統的な形態であったのに対し、1,300 mm幅の広窓が並び、室内には方向転換はできないが深々としたクッションの固定クロスシートが対面式の配置でシートピッチ1,960 mmとして並べられた新しいスタイルとなった。

もっとも、この広窓は大型のガラス板を木枠ではさんである構造であるため非常に重く、煤煙侵入防止に難があり、窓つり上げばねがついているとはいえ1人では両端の窓戸錠を同時に解放操作しつつ開閉するのが困難であり、乗客が窓を昇降させる際に障害となったため38両で製造は打ち切られ、以後の増備は窓幅を100 mm縮小して窓の開閉を容易にしたスロ31120形(のちのオロ40形)に移行した。

1941年の称号改定で車両番号がオロ36 1 - 38に改称された[3]。戦災で2両が廃車となったが、残る36両は戦後も長く二等車として使用された。

1963年(昭和38年)には、ほぼそのままの設備を保ったまま[注 5]でのオハ55形100番台への格下げとオハネ17形への改造が開始され、最終的にオハネ17形に5両が改造され、残りはオハ55形100番台に格下げされている。
オロフ33形(スロフ31100形)

スロ30960形と対をなす二等緩急車で、1939年(昭和14年)に日本車輌で合計5両が製造された。

構造面ではスロ30960形と共通であるが、特急「?」に用いられることを考慮して3位に給仕室、4位に車掌室を割り当てたため、座席定員は56名に減少している。特急用として給仕室をもつことから片側車掌室となっているが、同様の構造をとる他形式とは異なり3位出入台開き戸は通常の開戸が取り付けられていた。

1941年の称号改正でオロフ33 1 - 5に改称された[4]


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