国鉄の特殊狭軌線
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国鉄の特殊狭軌線(こくてつのとくしゅきょうきせん)では、内閣鉄道院鉄道省運輸通信省運輸省日本国有鉄道が運営した日本の国有鉄道の路線のうち、特殊狭軌である762mm (2ft6in) 規格の路線群について記述する。

これらの路線群に対しては、「国鉄狭軌軽便線」をはじめとしてさまざまな呼称がなされているが、公式に統一された名称は存在しない。
概要

元来、国有鉄道には1067mm (3ft6in) 以外の軌間を持つ路線は存在しなかった。1906年鉄道国有法による大規模な私鉄国有化でも、私設鉄道法の影響で各会社の軌間が1067mmに揃っていたため、結果的に路線網に別の軌間が入り込む余地はなかった。

ただし、例外として湧別軽便線(後の石北本線名寄本線の各一部)が1914年に建設された際、一部が762mm (2ft6in) 軌間で建設された。新規路線としてナローゲージが採用された唯一の例外である。

しかし新規に敷設されることはなくとも、大正時代から昭和初期にかけて敷設予定線区に存在する既存私鉄の買収を次々と行った結果、762mm軌間の路線が国有鉄道の路線網に混じる現象が発生した。これらの路線に対し国有鉄道は一時的にそのまま762mm軌間の特殊狭軌線として運営し、その後一部を除き改軌および改修を行って路線網に編入する処置を取った。

特殊狭軌線の存在期間は一部の路線を除けば基本的に短く、短いものでは1年、長くても10年未満だった。このため路線の消長が激しく、総路線数や総路線距離は断続的に増減を繰り返していたが、それでも昭和に入ると買収私鉄そのものの増加から総路線数・総路線距離ともに増大し、1936年から1938年にかけては総路線数6本、総路線距離184.2kmと最大値を記録した。しかし戦時中になると改軌を完了する路線が増えて急速な減少に転じ、戦後は釜石西線のみとなった。最終的に1950年の釜石西線改軌完了をもって、37年間の歴史に幕を下ろした。
官設線

次の1線のみである。石北本線名寄本線の項も参照のこと。
湧別軽便線

区間:
留辺蘂 - 社名淵

全通:1915年11月1日

改軌:1916年11月7日

元々は北海道の鉄道敷設に関する予定を定めた北海道鉄道敷設法名寄駅 - 下湧別駅(のちの湧別駅)間の予定線としてあった路線で、本来は着工する予定のないものであったが、開拓を急ぐ声から着工が具体化した。

この時に内閣鉄道院が用いたのが「軽便線」の制度である。軽便線は鉄道敷設法やそれに類する法律で敷設が予定されていない路線に適用される路線規格で、軽便鉄道法に準拠し施設の簡易な支線として建設することを条件に、帝国議会で予算承認を得るだけで建設できた。そのため、これをうまく使ってこの急な建設具体化に対応しようとしたのである。その結果、当線は網走本線(のちの池北線全線、石北本線釧網本線の各一部)の支線に変更して「軽便線」として着工されることになった。

これに際し、財政逼迫を理由として留辺蘂駅から先は1067mmではなく762mm軌間で建設することになり、1915年11月1日に社名淵駅(のちの開盛駅)まで開業。その先、下湧別までもそのまま762mm軌間で着工しかかっていた。

しかしこの区間の開通に前後して、帝国議会で全区間を「軽便線」ではなく幹線格であり本来の当線の規格である「本線」として建設することが決定し、社名淵駅から先の軌間も1067mmに変更された。このために当区間は開業した直後からいきなり改軌を迫られる事態となり、翌1916年11月7日には改軌された。軌間こそ762mmであったものの、建築定規は1067mm規格であったため、比較的早く改軌を行うことが可能であったのが救いであった。

当線の区間は後年路線改編により二分割され、留辺蘂 - 遠軽間が石北本線、遠軽 - 社名淵間が名寄本線となった。1989年に名寄本線が廃止されたため、後継区間として現存するのは前者の区間のみである。
私鉄買収線

買収された私鉄は計14社、国有鉄道線としての路線数は計12線となる。各私鉄および各線を継承した路線の項も参照のこと。
仙北軽便線

旧社名:
仙北軽便鉄道

区間:小牛田 - 石巻

買収:1919年4月1日

改軌:1920年5月23日

私鉄買収線の最初の事例である。鉄道敷設法に規定されていた石巻 - 小牛田 - 新庄間の予定線との重複から買収された。本来この区間は着工が決定されていなかったが、石巻港を拠点とする仙北軽便鉄道の好況を見て着工を決定し、買収に至った。

改軌は私鉄買収由来の特殊狭軌線の中でも特に早く、1年後の1920年5月23日には完了している。現在の石巻線の一部に相当する。
魚沼軽便線 → 魚沼線 ケ121(旧魚沼鉄道4)牽引の魚沼線の混合列車 西小千谷駅(1937年2月24日)

旧社名:魚沼鉄道

区間:新来迎寺 - 小千谷

買収:1922年6月15日

改軌:行われず休止(公式には1954年8月1日

当線は上越北線(現在の上越線)が並行して開業したために青息吐息の状態で、1921年には補償を申請して廃止届を出すところまで行っていた路線が、一転して国有化されるという特異な経緯をたどったものである。表向きは鉄道敷設法の別表に規定されていた来迎寺 - 小千谷 - 岩沢間の予定線と重なることと、沿線に軍の駐屯地があったことを根拠に買収されており、他の路線と同じような予定線重複にともなう買収、また一種の補償買収にも見えるものであった。しかし実際のところ当線の買収は地元有力者や会社が当時の与党・立憲政友会に働きかけたことによって起こったもので、買収の決定も野党の憲政会による激しい反対を立憲政友会が無理矢理押し切る形で行われるなど、特定の政党が単独で計画し力にものをいわせて強行するという、きわめて政治色の強いものであった。

このような経緯があったため路線の経営状態そのものは度外視であり、国有化後も並行線の問題が依然重くのしかかって当線の経営を圧迫し続けた。さらには貨物需要を担っていた発電所工事の中止や、第一次大戦後の軍縮によるあおりで軍の駐屯地が閉鎖されたことで存在意義が低下。改軌されずに塩漬け状態となり、ついには不要不急線に指定されて、1944年10月15日に全線休止されてしまった。

戦後、1954年にほぼ同じ経路で1067mm軌間の魚沼線が建設され、公式には特殊狭軌線が改軌されて復活した後継路線とされている。しかし実際には既に線路が消滅していた旧線の路盤を流用しながら新線を改めて敷設しており、実質的には「旧線を改軌して新線にした」というよりも「旧線を廃止して新線を一から建設し直した」という方が当たっている。なお、再建の際に来迎寺・西小千谷周辺は大きくルートが変更されており、この部分は完全な新設線ということになる。その再建された魚沼線も1984年に廃止されたため、いずれにせよ路線は現存しない。

なおこの魚沼鉄道買収まで、国有鉄道線としての路線名は「○○軽便線」とされていたが、1922年9月2日に「軽便線」の呼称が廃止され、特殊狭軌線も他の路線と同じく単に「○○線」と命名されるようになった。当線の最初の線名である「魚沼軽便線」が、途中で「魚沼線」と改称されたのもそのためである。
久留里線

旧社名:
千葉県営鉄道久留里線

区間:木更津 - 久留里

買収:1923年9月24日

改軌:1930年8月20日

千葉県営鉄道の一路線で、当初は買収対象ではなかった。しかし大正末期に木更津を起点に内房と外房を結ぶ鉄道構想が起こり、これが鉄道敷設法に規定されていた木更津 - 久留里 - 大多喜 - 大原間の予定線と重なって、互いの利害が一致したことから買収された。この際、鉄道省は無償譲渡を条件に路線延長を約束しており、この取引から無償で譲渡されることになった。なお買収日が関東大震災の直後であり、実際に甚大な被害を受けていたことから、「震災被害の復旧費用の関係から無償で譲渡された」とする説があるが、上述の通り実際には無償譲渡は政治取引から出たことであって震災とは無関係であり、全くの俗説に過ぎない。

かくして政府と掛け合ってまで買収にこぎつけたものの、実際には鉄道建設予算の削減と政治的な事情から、約束は反故にされて長く改軌されないままとなり、県議会の抗議も門前払いの状態が続いた。何とか改軌にこぎ着けたのは、昭和に入った1930年8月20日のことであった。

路線名は改軌工事の際に一時「木原西線」とされたが、結局元の線名に戻り、現在の久留里線として継承されている。
太多線

旧社名:
東濃鉄道


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