国維会
[Wikipedia|▼Menu]

国維会(こくいかい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:國維會)は、1932年(昭和7年)から34年にかけて存在した日本の革新右派系政治団体
概要

1932年1月、金鶏学院安岡正篤とその支持者を中心として設立[1]。発起人に荒木貞夫後藤文夫近衛文麿、理事に酒井忠正岡部長景吉田茂(内務官僚、戦後の首相とは別人)・松本学ら華族・官僚・軍人が名を連ねた[2]。機関紙『国維』を発行。満洲事変後の国家主義思潮の高まりに乗じて、日本精神に根ざした国政革新計劃の樹立と、人材の糾合を目的とした。いわゆる新官僚(官僚主導の政治改革を企図した内務官僚を中心としたグループ)が数多く参加し、活動の中心となる。同年の斎藤内閣に後藤が農相に就任、「農山漁村経済更生運動」を指導したのを始め、続く岡田内閣でも後藤・吉田・廣田弘毅河田烈ら会員が入閣し、内閣書記官長の吉田を中心として「国策審議機関案」(この案に基づき後に内閣審議会内閣調査局企画院の前身)が生まれる)が作成された。

しかし、こうした会員の進出は、同会が「政界の黒幕」「新官僚の母体」であるといった見方を広げ、また陸軍統制派との繋がりを噂されたこともあり、これらの疑惑を解消するため34年12月に解散声明を発表、表面的な政治団体としての活動にピリオドを打った(理事会は朝飯会と呼ばれる団体に改組された[3])。
出典^ 1927年(昭和2年)10月に金鶏学院より発行した『日本政教の根本問題 国体原論』において国体の明示を行い、次いで1928年(昭和3年)2月に金鶏学院の叢書「蛍雪集」において国維運動を提唱し、日本の行くべき具体的方策を公表した。その運動の一環としての創会。『安岡正篤先生年譜』安岡正篤先生年譜編集委員会 1997 p.35、p40
^ 他に、香坂昌康・大島辰二郎。
^ 亀井俊郎『金?学院の風景』 邑心文庫、2003年、ISBN 4946486305.


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:4369 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef