国立療養所菊池恵楓園
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国立療養所菊池恵楓園(こくりつりょうようじょきくちけいふうえん、英称:National Sanatorium Kikuchi Keifuen)とは、熊本県合志市に位置する国立ハンセン病療養所である。
概要

住所:熊本県合志市栄3796

敷地面積:622,338
m2

なお、近隣にはかつて同じく厚生労働省の施設等機関であった再春医療センターがある。
沿革

1909年4月1日 - 「九州7県連合立九州癩(らい)療養所」として開設[1]

1911年3月 - 「九州療養所」に改称(熊本県知事訓令第157号)[1]

1916年4月 - 患者慰安会設立

1925年11月 - 患者慰安会を「患者援護会」と改称

1926年6月19日 - 自治会発足[1]

1940年7月9日 - 本妙寺らい集落解散 職員参加

1941年2月 - 回春病院閉鎖にともない患者58名を収容

1941年7月1日 - 国(厚生省)に移管され「国立療養所菊池恵楓園」に改称[1]

1945年5月13日 - 米軍より空襲を受け、生き埋め8人(うち窒息死2名)

1951年5月 - 自治会機関誌「菊池野」創刊

1951年6月 - 106棟(事務本館等)が完成[1]

1951年11月 - プロミン治癒第1号退園

1953年 - 患者絵画クラブ「金陽会」発足

1953年3月 - 菊池医療刑務所開所

1982年3月15日 - 九州三園医療センター合併症治療棟が竣工[1]

1996年3月 - 菊池医療刑務所閉所

1998年4月 - 皮膚科にて保険診療はじまる

2006年12月12日 - 「社会交流会館」(資料館)を療養所内に開設[1]

2012年2月1日 - 民間保育所「かえでの森こども園[2]」(NPO法人「ひと・学び支援センター熊本[3]」運営)」開所[4]

2013年10月26日 - 明仁天皇美智子皇后が県内での行事参加に関連して行啓し、園内での死者を慰霊するとともに入所者と懇談した。

2019年11月17日 - 日曜美術館で「光の絵画?ハンセン病療養所恵楓園?絵画クラブ「金陽会」」と題して元患者の残した絵画や絵画クラブ活動がNHKEテレで放送された。

2022年5月13日 - 社会交流会館が改修され歴史資料館となる[5]

医療施設
診療科目

内科、精神科、外科、整形外科、皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科
[1]

研修施設

日本眼科学会専門医制度研修認定施設
[1]

日本皮膚科学会専門医制度研修認定施設[1]

日本医療機能評価認定

「貴病院が日本医療機能評価機構の定める認定基準を達成していることを証する」 財団法人日本医療機能評価機構 理事長 坪井栄寿

認定第JC1578号

審査体制区分4

病院名 国立療養所菊池恵楓園

認定期間 2009年1月19日 - 2014年1月18日 


園長

河村正之(1909年4月 - 1933年7月)
[6]
詳細は「河村正之」を参照

田宮貞亮(1933年11月 - 1934年1月)

宮崎松記(1934年6月 - 1958年9月)
詳細は「宮崎松記」を参照

田尻敢(1958年9月 - 1963年6月)
詳細は「田尻敢」を参照

志賀一親(1963年7月 - 1976年9月)

熊丸茂(1976年12月 - 1991年3月)

水岡二郎(1991年4月 - 1994年3月)

由布雅夫(1994年4月 - 2004年4月)

原田正孝(2004年5月 - 現在)

研究
戦後の医療研究の隆盛

1948年10月5日、プロミンが厚生省配給により、菊池恵楓園で使用できるようになり、研究の機運が湧いてきた。菊池恵楓園での研究の隆盛について、菊池恵楓園50周年史に基づいて、かいつまんで書く
[7]

1947年3月、元満州医科大学生理学教授であった緒方維弘が熊本大学に赴任した。汗の研究の久野教授の高弟である。同教授指導の下、志賀医務課長が「らい性発汗障害患者高暑時体温調節」の研究報告が出されたのが1948年である。緒方教授の努力により、日本学術会議第7部(医学)副部長久野教授を中心に、熊本大学、その他の協力を得て1950年4月本園において「らい特殊研究班」が結成された。

出席者は

東京大学教授、放射線、中泉正徳、解剖、小川鼎三(代理中井準之助)、東京医科歯科大学、生理、勝木保次、名古屋大学、生理、久野寧、京都大学、病理、鈴江懐、皮膚、山本俊平、外科、荒木千里、内科、前川孫二郎(代理、荒木仁)、外科、木村忠司,広島大学、最近、占部薫、長崎大学、皮膚、北村精一

熊本大学、解剖、佐々木宗一、細菌、六反田藤吉、生理、緒方維弘、外科、勝屋辰弘、放射線、亀田魁輔、婦人科、加来道隆、内科、勝木司馬之助、病理、河瀬収、皮膚、楢原憲章、小児科、永野祐憲、病理、久保久雄、解剖、くつ那将愛、外科、浅野芳登、神経、宮川九平太、内科、宮尾定信、薬理、渡辺恵鎧、眼科、須田経宇。



1933年より眉毛の形成術がおこなわれるようになった。1954年から眼科の須田教授の手術、1954年6月に熊大に赴任した整形の玉井教授は教室員をつれて、手術を行い、教室員2名を派遣した。

宮崎松記は、らい研究所の分室を菊池恵楓園に誘致した(1955年7月1日 - 1957年7月31日、分室長、宮崎松記)。現在の社会福祉会館の立派な建物も当時に建設された。偶々、学位制度の改革が1960年にあることになり、学位を取得する熊本大学の研究者が続々と研究に菊池恵楓園で働くことになった。しかし、博士になった後はほとんど離れていった。

研究者

佐竹義継(さたけ よしつぐ)(1908-1998)治らい薬を研究した薬学研究家。満州、中国、日本(菊池恵楓園、西九州大学)で働いた。アセタミン、DOT,PB1,PB2,ピカジッド、チオザミンを開発した
[8]

彼は「らい化学療養剤の開発に関する研究」にて昭和42年3月、第40回日本らい学会総会において桜根賞を受賞した[9]。彼の写真は国立療養所菊池恵楓園創立百周年記念誌「百年の星霜」(2009)にある[10]

佐竹義継のらい学会発表

新しい型の有機水銀化合物の鼠らい発症に及ぼす影響(1956) 第29回らい学会(仙台)

3-OXY-44' diaminodiphenyl sulfone とその融導体の合成について(治療剤の研究第1報)(1957) 第30回らい学会(名古屋)

4,4'-Diacetamino-Diphenylsulfoneについて (1958) 第31回らい学会(松本)

なお、彼はヂアミノ・ヂフェニールスルホンの合成研究 中国国立新華廠研究報 1952 を発表、中国の青島のらい療養所に内服させ、世界に先駆けて有効なことを知った。




他の文献:Studies on anti-lepromatic agents;Chemicopharmacological studies on accetylated dervatives of 4,4'-diaminophenylsulfone. Kumamoto Med J. 12, 1959.

Thiosamin. 菊池恵楓園の佐竹義継の製剤。DDSにTibionを付けた構造式で、毒性は極めて小、60-70%の効果あり。佐竹の自家製品であったが、製薬を引き受ける会社ができたという[11]

療養生活
居住舎

障害の程度に応じて不自由者棟と一般寮(軽症者)の居住舎がある[1]
年中行事

納涼盆踊り大会、長寿を祝う会、自治会文化祭、クリスマス、ゲートボール大会などの行事がある[1]
短歌指導者

内田守(うちだまもる)内田守人(もりと)本園の患者の短歌指導者であるばかりでなく、長島愛生園などでの指導者でもあった。
詳細は「内田守」を参照
歴史資料館

2022年5月13日に旧社会交流会館を改修して歴史資料館が設置された[5]


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