国立公衆衛生院(こくりつこうしゅうえいせいいん、The Institute of Public Health)は2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。
公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している[1]。
2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法
により現在は埼玉県和光市に移転している。旧建物は文化財的価値から保存され、港区立郷土歴史館として2018年にオープンした。日本の公衆衛生の改善と向上のため、公衆衛生に携わる技術者の養成、訓練を行うとともに、公衆衛生に関する調査研究機関として設置された。 東京都港区白金台4-6-1 国立公衆衛生院創立30周年記念誌[1]による。 国立公衆衛生院 建築家内田祥三により設計され、1938年(昭和13年)に竣工した。 旧国立公衆衛生院の建築様式にはゴシック(「内田ゴシック」)の特徴が取り入れられ、城壁のような高層の作りである。白金台の高台に位置し、建物の高さと併せ、広範囲から視認することができた。 昭和57年、日本建築学会によって、典型的な近代建築として選定され、保存に努めるよう要請されている[5]。 敷地・建築物は2007年6月に用途廃止となり閉鎖されているが、2009年3月に港区虎ノ門3丁目の旧・港区立鞆絵小学校敷地と交換され港区所有となっている[6]。港区は2018年に港区立郷土歴史館、在宅緩和ケア支援センター、子育て関連施設、区民協働スペース、防災関連施設、自転車等駐車場といった複合施設「ゆかしの杜
旧所在地
年譜
1923年(大正12年)9月1日、米国ロックフェラー財団から、関東大震災後の災害地復興援助の一部として、公衆衛生専門家の育成・訓練機関の設立について、日本政府に非公式な連絡があった[2]。
1930年(昭和5年)、日本政府は公衆衛生院および学生の臨地訓練機関としての都市および農村保健館の設計図・公衆衛生院の計画案をロックフェラー財団へ送付した。この計画案が、財団で了承され、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。政府は東京帝国大学伝染病研究所および同附属病院と同じ敷地内に隣接して建設に着手した[2]。
1934年(昭和9年):内務省内に公衆衛生技術員養成機関建設委員会が設けられ、建設に関する事務を担う。全施設(公衆衛生院の建物・設備・器具・機械・図書・両保健館の建物など)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350万ドル超であった[2]。
1937年(昭和12年)、公衆衛生院および都市・農村両保健館の建物・器具機器・図書等の準備が完了。建設委員会を通じ、公衆衛生院は日本政府に、都市保健館は東京都に、農村保健館は埼玉県に寄贈された[2]。
1938年(昭和13年)3月29日 - 公衆衛生院官制公布により設立(厚生省所管)東京帝国大学名誉教授林春雄が初代院長となった。発足時の教授は、野辺地慶三博士(初代疫学部長)、斎藤潔博士(初代小児衛生部長、創立15周年記念誌編集委員長、第三代公衆衛生院長)、石川知福博士(初代環境生理科長、昭和23年東京大学医学部初代公衆衛生教授)、川上理一博士(初代衛生統計学部部長)があたった[2]。
1940年(昭和15年)12月4日 - 栄養研究所(厚生省所管)と合併し厚生科学研究所となる(勅令第840号)。
1941年(昭和16年)4月1日 - 体育研究所(文部省所管)の一部を併合(勅令第278号)
1942年(昭和17年)11月1日 - 厚生省研究所(厚生省所管)へ統合(勅令第762号)
1946年(昭和21年)5月1日 - 厚生省研究所を廃し、改めて公衆衛生院となる(勅令第249号)
1947年(昭和22年)5月1日 - 国立栄養研究所を分離(勅令第175号)
1949年(昭和24年)6月1日 - 国立公衆衛生院に改称
1965年(昭和40年)に世界保健機関 (WHO) は、国立公衆衛生院のDiploma in Public Healthを諸外国の公衆衛生大学修士M.P.H.と同等のものと認め、「世界公衆衛生大学年鑑」に収録している[1]。
2002年(平成14年)4月1日 - 国立保健医療科学院に改組
設立当初の主なスタッフ
初代院長 - 林春雄(東京帝国大学名誉教授)
疫学部長 - 野辺地慶三
建設委員会幹事野辺地慶三博士(公衆衛生院発足時に伝染病研究所疫学研究室は、公衆衛生院疫学部として、新発足することとなった。初代疫学部長には、野辺地慶三博士が就任した。伝染病研究所疫学部研究室時代は、その性格上微生物関係の研究は、直接行っていなかったが、新設の疫学部は、この方面の研究も併せ行うこととなった)の献身的な努力に負う所が大であった[2]。野辺地慶三博士は、東京帝国大学医科大学を卒業後、伝染病研究所に入り、コレラ菌の血清学的分類法を発見し、この業績は、現在でも適用されている[3]。
小児衛生部 - 斎藤潔(第三代院長)
環境生理科 - 石川知福
衛生統計学部長 - 川上理一
建築物について
情報
設計者内田祥三
施工大倉土木
構造形式鉄骨鉄筋コンクリート構造、鉄筋コンクリート構造
建築面積2,923.09 m² ※884.459坪
延床面積15,090.75 m² ※4,564.748坪
階数地下2階、地上7階、塔屋2階
高さ塔屋約36.20メートル、5階約23.10メートル
着工1935年(昭和10年)3月
竣工1938年(昭和13年)10月
文化財港区指定文化財(有形文化財[建造物])
指定・登録等日2019年(令和元年)9月27日[4]
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旧所在地:東京都港区白金台4-6-1
建築年:1938年(昭和13年)
設計:内田祥三
施工:大倉土木
設計者・内田祥三は麻布笄町の自邸(戦後、ソ連大使館として使われたあと消失)[8]から見えるこの建物を気に入っていたとの記録がある。また、内田祥三設計の東京大学医科学研究所と隣接している。
出身者
池田耕一(日本大学教授)
石井敏弘(聖クリストファー大学