国盗り物語
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この項目では、歴史小説及びそれを原作にした2005年のドラマについて説明しています。

1973年放映のNHK大河ドラマについては「国盗り物語 (NHK大河ドラマ)」をご覧ください。

SDガンダムのゲームについては「SDガンダム SD戦国伝 国盗り物語」をご覧ください。

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『国盗り物語』(くにとりものがたり)は、司馬遼太郎歴史小説戦国時代、一介の油売りから身を起こし美濃国の国主になった斎藤道三と、隣国の尾張国に生まれ破天荒な政略・軍略で天下布武を押し進めた織田信長を扱った作品である。

サンデー毎日』誌上で、1963年8月から1966年6月まで連載された。
概要

司馬の代表作の一つとして広く知られ、『新史太閤記』・『関ヶ原』へと連なる「戦国三部作」の緒作である。

斎藤道三が悪謀の限りを尽くして美濃一国を鮮やかに掠め盗るピカレスク・ロマン『斎藤道三編』と、道三の娘婿で「うつけ殿」と馬鹿にされながらも既存の常識にとらわれない奇抜な着想で天下統一への足がかりをつけた織田信長を主人公とする『織田信長編』から成る。『信長編』では、信長を主役に据えながらも道三の甥である明智光秀の視点から信長が語られる場面が多く、光秀が事実上もう一人の主人公として登場する。むしろ、信長を含まない光秀の描写(足利義昭、細川藤孝とのやりとりなど)がその逆に対して圧倒的に多く、事実上は光秀篇に近い内容となっている。

連載当初は道三の生涯のみを扱う構想であったが(タイトルの『国盗り物語』は道三の生涯にちなんだもの)、編集部の要請を受けて連載は続けられ『道三編』と『信長編』の2部構成となった。司馬によると、中世の崩壊期に現れた道三が「美濃の中世体制の中で近世を予想させる徒花を咲かせ」てその種子が婿の信長と甥の光秀に引き継がれることとなり、道三から見れば相弟子ともいえる2人が「本能寺で激突するところで書きおこしたときの主題が完結する」ために、「稿を新たにして後半を書いた」という[1]

本作は司馬の長編小説の中でも構成に破綻がなく秀作と評される傾向にあり、伊東光晴らが選んだ『近代日本の百冊』(講談社、1994年)の中の一冊にも選ばれている。
あらすじ
斎藤道三編

「国主になりたいものだ」などと、さながら狂人のような夢を抱いて洛中に現れた男がいた。男の名は松波庄九郎。かつては僧門に身を置き妙覚寺本山で比類なき学識を謳われたものの、退屈な僧院の生活を厭って寺を飛び出し、還俗して牢人となった。ほどなくして庄九郎は京洛有数の油問屋の身代をまるまる手に入れるものの、自らの望みを捨てることはできなかった。望みとは、国主となりいずれは天下をも手にしたいという件の狂人の夢である。余人が聞けば嘲笑されるような妄望であったが、この男は学は内外を極め、兵書や武術にも通じ、さらには公家も及ばぬ芸道の才も備え、万能ともいえる才覚に恵まれていた。庄九郎は油問屋を捨てることを決意し、野望に満ちたその目は東に向けられた。豊沃の田地に恵まれ、京に近く、東西の交通の要地にある美濃国。この国を征したものは天下も征すると確信した庄九郎は、己の智謀をもって美濃一国を盗み取る「国盗り」に挑むことにする。

遠く鎌倉の世より美濃に封じられた土岐氏は、守護大名という地位の下で偸安の生活に耽り、惰弱柔媚の沼に沈んでいた。美濃の土を踏んだ庄九郎は旧知の伝を辿り、守護である土岐政頼の弟の頼芸に拝謁する。頼芸はあふれんばかりの多芸の才を持つ庄九郎を気に入り、臣下に加えていたく寵愛した。頼芸は数年前に兄との相続争いに敗れて以来、郊外の館で逼塞する身であったが、庄九郎は鮮やかな策謀で政頼を国外へと追い払い、頼芸を守護の座に就かせることに成功する。頼芸の信頼はいよいよ高まり、庄九郎は美濃国の実権を握るべく、謀略に謀略を重ねて政敵を排除し、自らの権力基盤を固めていった。うかつに手を出せば毒牙にかかりかねぬその謀才は美濃の侍達を震えあがらせ、庄九郎は「蝮」という蔑称とともに恐れられた。

かくして美濃の重臣の地位に就いた庄九郎であったが、美濃侍の多くは得体の知れぬ他所者が専横的に振る舞う様を苦々しく見ていた。やがて庄九郎が得意の謀略で旧政頼派の首魁を抹殺するや彼らの憤懣は爆発し、庄九郎は失脚に追い込まれる。庄九郎は再び出家することを宣言して京へ帰ることとなるが、ほどなくして尾張の大名・織田信秀が大軍を率いて美濃へ攻め込み、庄九郎はそれを機会に美濃へ戻り、巧みな采配を振るって織田軍を撃退する。庄九郎は「海内一の勇将」と讃えられ、期を同じくして起こった水害でも見事な復興指揮をとって絶大な支持を得た。もはや庄九郎を悪し様に罵る者はなくなり、庄九郎は頼芸の薦めで世継の絶えていた守護代斎藤氏の名跡を継ぐ。すでに穏やかな領地経営で領民に慕われていた庄九郎は美濃を去る際に一時名乗った法名から「道三さま」と尊称されており、「斎藤道三」の名が世に響くこととなる。美濃の実権を手にした庄九郎は、美濃を己の思う国に作り変えるべく、政体の刷新にとりかかった。美濃社会に厳然として根を下ろす門閥主義を廃し、能さえあれば出自を問わず下層民をもさかんに取り立てた。さらに巨大寺社に握られていた物品の専売特権を打ち破り、経済の振興を奨励して自由な商業行為を認める「楽市楽座」を実現させようとした。庄九郎の政治思想はそのまま中世的秩序の破壊に繋がるものであり、この男の敵とは亡霊のように残存する中世秩序そのものといえた。庄九郎は自身を革命を望む天が遣わした申し子と豪語し、旧弊成力に大鉈を振るい果断に改革を進めていった。

国内の抵抗をあらかた鎮圧すると、庄九郎は半ば置き捨てられていた稲葉山城に大改築を加え、諸国に類のない巨大城郭に生まれ変わらせた。天嶮に恵まれ四方の国々を睥睨する城を手に入れた庄九郎は、永く待ち続けた気運がいよいよ到来したことを確信する。美濃の侍連は近隣の大名の軍拡ぶりを目の当たりにして強力な指導者を求めていた。領民達はもとより庄九郎の穏当な領地経営を歓迎している。翻って守護たる頼芸は酒色に惑溺するばかりで人望を失っており、もはや誰憚ることなく野望を成し遂げる時が来たと判断した庄九郎は、頼芸を美濃から追放して守護の座を奪いとった。ついに念願の「国盗り」を完成させた庄九郎は、戦国大名・斎藤道三として美濃国に君臨することとなる。

還俗して寺を出て二十年余、美濃の「国盗り」は成就させたものの、しかし天下を取るという野望はもはや幻でしかなかった。庄九郎、いや道三はすでに大きく齢を重ね、天下を窺うなどという時間はもはやその身には残されてはいなかった。かねてより「蝮」と畏怖されてきた男も、いまや老境に達する年を迎えようとしていた。
織田信長編

度重なる戦で手痛い敗北を被った織田信秀は美濃との和睦を図り、世継の信長の縁談を道三に申し入れる。道三はこれを了承するものの、ところが信長という男は尾張では知らぬ者のない「うつけ殿」で、奇行ばかり繰り返す評判の馬鹿殿だった。信秀が急逝して家督を継いだ後も素行の悪さは改まることはなかったが、しかし道三は一期の対面で信長の資質を見抜いた。奇矯な振る舞いの奥に常識にとらわれぬ破天荒な想像力を見た道三は、以後舅と婿の関係を超えて厚情を示し、さながら師のように様々な教示を信長に与えた。ほどなく道三は世子の義竜との間に干戈を交えることとなり、信長に美濃一国を譲るという遺言状をしたためて出陣し、長良川の戦いで戦死する。自身の果たせなかった天下取りの夢を信長に託し、徒手空拳で美濃一国を手に入れた梟雄はここにその生涯を終えた。

いま一人、道三には信長と同じくその器量を高く見込んだ者がいた。甥の明智光秀という若者であり、道三はこの光秀の聡明さを高く買って猶子とし、かねてより手ずから教示を与えていた。その才覚を惜しんだ道三の命により美濃を落ち延びた光秀は、諸国を流浪した末に足利将軍家の知己を得る。光秀は室町幕府の再興に己の生を賭けることを誓うが、時を同じくして桶狭間の戦いに臨んだ信長が東海の大大名・今川義元を鮮やかに討ち取ったという噂を耳にする。共に亡き道三の相弟子であるものの、「うつけ殿」に何ができると信長を侮っていた光秀は、その劇的な勝利に衝撃を受ける。信長は次いで美濃を攻め、稲葉山城の戦いでも勝利を得て美濃を併呑した。華々しい戦勝を上げた信長の名は天下に轟くこととなり、もはや「うつけ殿」などと嘲う者はいなくなった。信長は稲葉山城下を岐阜と改め、かつて道三が天下取りを夢見た豊穣の地を手に入れる。

永禄の変将軍義輝が暗殺された後、光秀は幽閉されていた弟の義昭を救い出し、義昭を新将軍に擁立するべく奔走を始める。光秀はひとまず越前朝倉氏に庇護を頼むが、朝倉氏は抵抗勢力と交戦してまで京へ上る気はなかった。義昭は旭日昇天の勢いにある信長に将軍擁立を頼むことを望み、快諾した信長によって美濃へと迎えられる。義昭の推挙で信長に仕えることとなった光秀は、織田家中に入ったことにより政軍ともに卓抜したその能力を目の当たりにし、信長への評価をいよいよ改めねばならなくなる。光秀が一驚したのは諸事につけ徹底した信長の合理主義だった。信長は破竹の勢いで抵抗勢力を蹴散らしてたちまち上洛を実現させるものの、その戦術は伝統兵法などまるで無視した徹頭徹尾合理性で貫かれたものだった。信長の合理主義は中世的で非合理な既存の社会を破壊しようとするその統治思想にも現れており、光秀は室町幕府という旧体制の再興の果てに乱世の収拾を見ていたが、信長という男はまったく新たな秩序を創造しようとしていた。遅まきながら道三が信長に目をかけた理由を得心した光秀は、この男はあるいは天下を取るやも知れぬと考えるようになる。義昭の擁立もその権威に人心収攬の価値があるから利用したにすぎず、古い権威に微塵の価値も認めぬ信長はもとより室町将軍への畏敬など欠片も持ってはいなかった。やがて当の義昭も信長のその魂胆を察した。飾り物として奉られるだけの地位に憤慨した義昭は密かに信長討伐の御教書をばら撒き、書状に応じた大名達は諸国で次々と立ち上がり、反織田同盟が形成されて信長は窮地に陥ることとなる。

以後、信長は反織田同盟の切り崩しに躍起になるが、やがて甲斐の太守・武田信玄が上洛を図るという噂が天下を駆け巡った。反信長を標榜する諸大名にとってこの甲州の巨人の西上は最大の切望であったが、ところが信玄は進軍途中に突然の病に斃れて急死する。光秀は信長の強運に驚嘆し、天下を制するのは器量の有る無しではなく、器量を超えた天命を手にする者かと感ずる。信玄の死により、反織田同盟には大きく亀裂が入った。信玄の死を知らずに挙兵した義昭は信長の猛反撃を受けて京を追放され、室町幕府はここに滅亡した。すでに義昭の人物に幻滅していた光秀は敢えて幕府の崩壊を止めようとは思わなかったが、己が半生をかけて成し遂げようとした幕府再興の望みが崩れ去ったことに寂寞たる感慨を抱かずにはいられなかった。将軍家の消滅により光秀は正式に織田家の一将となり、その有能さを買った信長の命で、反抗勢力の討滅に駆け廻ることとなる。将軍追放に続いて信長は仇敵であった浅井・朝倉両氏も滅ぼし、長篠の戦いでは信玄亡き後の武田軍を壊滅させ、本願寺の一向衆も十年余に渡る長期戦の末に屈服させることに成功する。


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