国の象徴
国璽(こくじ)とは、国家の表徴として押す璽(印章または印影)である。外交文書など、国家の重要文書に押される。
日本の国璽詳細は「日本の国璽」を参照明治天皇の御名と国璽。1871年(明治4年)に製作された旧印で捺されたもの。明治天皇の御名と国璽。1874年(明治7年)に製作された現用品で捺されたもの。
日本の国璽は金印[注釈 1] で、印文は篆書体で「大日本國璽」(2行縦書で右側が「大日本」、左側が「國璽」)と篆刻されている。2寸9分(約8.79cm)四方[注釈 2] の角印で、重さは約3.50kgあり、御璽よりいくぶん小さい[1]。宮内庁による英文表記は「State Seal of Japan」[2]。 明治維新以前には、官印として「内印」と称する天皇の印(印文は「天皇御璽」)、「外印」と称する太政官の印(印文は「太政官印」)はあったものの、国璽と称する印は存在しなかった。一方、日米修好通商条約批准書には将軍が押す「經文緯武」と刻まれた縦横9.2cmの銀印[3][4] 及び老中が押す「日本政府之印」と刻まれた3寸4分(約10.3cm[注釈 3])の銅製印章が用いられた。これは老中堀田正睦の諮問により定められたもので、徳川幕府の国家代表性とその公印を意味するものであった[5]。 明治維新後、1869年8月15日(明治2年7月8日)に職員令(太政官制)を制定して新たに官位相当制を定めるに際して、御璽の用例を定めた。このときの御璽は「内印」として用いられてきた伝来の銅印[6] が使用された。御璽は、勅任官の官記[注釈 4]、勅授の位記[注釈 5]、華族の相続等に押され、その後、外国へ特派する使節に対する詔書などの文書にも用いられた。 1871年(明治4年)、大蔵卿伊達宗城を全権として清に派遣する際、伝来の銅印が「印文ノ不明」[7]「字面不宜趣」な物とされ[8]、同年5月3日に篆刻家の小曽根乾堂に命じて新たに国璽として「大日本國璽」と刻された方2寸9分(約8.79cm)の石印を製作した[9]。 この石印も「艸卒ノ刻、字體典雅ナルヲ得ス」[7]「早卒ニ際シ石刻相成且刻面モ不宜様ニ相見候」[8] と不評だったため、現在の御璽・国璽は、金材をもって改めて刻したものである。1873年(明治6年)2月、宮内省より京都の鋳造師・秦蔵六に鋳造を、同年9月に同じく京都の印司・安部井音人(安部井櫟堂)に彫刻が命じられ、御璽と共に1年がかりで製作された。1874年(明治7年)4月に完成し、同7月20日に新しい御璽・国璽の印影が回達された[8]。改刻に際して印文は変わらず「大日本國璽」とされた。以降、今日に至るまで改刻されることなく「大」の字を冠したまま使われている。 当初は宮内省が、後に宮内省外局の内大臣府が御璽と共に保管し、内大臣が押印した。第二次世界大戦後に内大臣府が廃止されると宮内省侍従職へ移され、宮内庁設置に伴い宮内庁侍従職が保管し(宮内庁法第1条第2項、同第2条第5項、同第4条第1項)、現在は事務主管の侍従職補佐が押印する。紫と白の袱紗に包み、専用の革製ケースに入れて保管されている。
変遷
運用