国王大権_(イギリス)
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イギリスにおける国王大権(こくおうたいけん、: royal prerogative)とは、同国において君主が独占する大権として認められる、慣習上の権限、特権および免除の集合である。イギリス政府の行政権の多くは、君主に属するものが国王大権の委任によって与えられたものである。

国王大権は、かつては君主自らのイニシアティブにより行使されたが、17世紀頃から制限されていき、(その決定につき議会に対して責任を負う)首相または内閣の助言が国王大権の行使には必要とされるようになっていった。君主は、今なお憲法上は首相または内閣の助言に反して国王大権を行使する権能を有するが、実際にそのようなことが行われるのは、緊急事態か、問題となる状況に先例を適切に適用できない場合に限られる。

今日でも、国王大権は、イギリス政府にとって重要な複数の分野に関連している。外交や国防などである。これらやその他の分野において君主は重要な憲法上の地位を有しているものの、その権能は極めて限定的である。なぜなら、今日における国王大権を握っているのは首相その他の大臣又はその他の政府職員だからである。
定義ウィリアム・ブラックストンは、国王大権とは君主のみによって行使し得る権能をいうものと主張した。

国王大権は、「適切に定義することが悪名高く困難な概念」とされるが[1]、著名な憲法学者であるA.V.ダイシーは次のように著述する。大権とは、歴史的に、かつ、事柄上当然に、いかなる時代においても法的には国王の掌中にある裁量的かつ専断的な権限の残余以外の何者でもないように思える。大権とは、国王の本来的権限の残余部分の名称である。…執行府が議会制定法の授権なしに合法的に行い得る全ての行為は、大権に基づいて行われるのである。[2]

ダイシー説は最も論者の支持のある見解であるが、憲法学者によってはウィリアム・ブラックストンによる定義を支持する[3]。大権との語により我々が通常理解するものは、王がその国王たる御位により当然に有する、その他全ての者の上にあり、かつ、コモン・ローの通常の過程の外にある、特別な卓越である…これが適用され得るのは、専ら、権利および能力であって王が他の者とは異なり独占的に享有するものであり、その臣民のいずれかと共に享有するものではない。[2]

この2説は異なるものである。ダイシーの見解によれば、制定法に基づかない君主による統治行為は大権に基づくものである。しかしながら、ブラックストンの主張によれば、大権が対象とするのは、単に、連合王国内の他のいかなる者も団体も引き受けない行為であり、例えば議会の解散である[2]
歴史エドワード・コークは、大権は君主が裁判官たることを許さないものと主張した。

国王大権の由来は君主の属人的な権能にある。13世紀以降イングランドにおいては、フランスと同様に、君主は全能であり、ただこの絶対的権能を抑制したのは「14世紀および15世紀における封建的騒乱の再燃」であった[4]。国王大権を定義する試みの初期のものとしては、1387年のリチャード2世による判決がある[5][6]

16世紀中にこの「騒乱」は後退し始め、君主は真に独立となった。ヘンリー8世およびその後継者の下で、王はイングランド国教会の首長であり、したがって、聖界に対して責任を負わなかった。しかしながら、この時代における議会の台頭は問題を含むものであった。君主は「イングランド憲法における優越的パートナー」であったものの、裁判所は、議会の果たした役割を認め、王を全能と宣言しなくなった[4]。フェラーズ事件(Ferrer's Case)においては[7]、ヘンリー8世はこれを認め、議会の承認があればこれがないよりも自身ははるかに強力であることを示した。このことが明確なのは何と言っても課税関係であった。トーマス・スミスなどのこの時代の著述家は、君主は議会の承認なしには課税し得ないと指摘する[8]

同時に、ヘンリー8世とその後継者は通常は裁判所の意思に従った。理論的には彼らは裁判官に拘束されなかったにもかかわらずである。ウィリアム・ホールズワースの推論によれば、国王法務官や裁判所に対して常日頃から法的な助言と承認を求める中で、ヘンリー8世は法に従うことによる安定的な統治の必要性を認めたのである。ホールズワースの主張によれば、法は全ての中で最高であるとの見解は、「テューダー期における指導的な法律家および政治家ならびに時事評論家全ての見解であった」[9]。当時の一般的見解によれば、王は「拘束のない裁量」を有するが、大権の行使について裁判所が条件を課した分野においては、または王がそのように選んだ場合には、制限を受けるのである[10]

この安定状態が最初に揺らいだのは1607年、禁止事件(Case of Prohibitions)であった。ジェームズ6世・1世が、君主たる自身は、裁判官となってコモン・ローを自ら適当と考えるものに解する神聖な権利を有すると主張したのである。エドワード・コーク率いる裁判所はこの考えを否定し、君主はいかなる個人にも服しないが法には服する、と述べた。王が十分な法知識を得るまでは、王はこれを解する権利を有しない。コークの指摘によれば、この知識は「その認識を獲得し得る前に、長い勉強と経験を要する…人為的理性の習得が求められる」。同様に、1611年の布告事件(Case of Proclamations)においても、コークは、君主は既に有する大権を行使し得るのみであり、新たなものは創設し得ない、とした[11]

名誉革命により、ジェームズ7世・2世に替わってメアリ2世とその夫ウィリアム3世が即位した。同時に、1689年権利章典が起草され、君主の議会への従属が確固たるものとされた。これは、国王大権を明確に制限しており、第1条は「議会の承認なく王権により法律又は法律の執行を猶予する権能は違法である」と規定し、第4条は「大権の口実による国王のためまたは国王の使用に供する金銭の賦課は、議会の許諾がなく、許諾されまたはされるべきよりも長期にわたり、または他の方法によるものは、違法である」と確認する。権利章典はさらに、議会は残る大権の利用を制限する権利を有することを確認したが、これは、1694年三年議会法が君主に対して一定の時期に議会を解散し招集することを求めたことによって実証された[12]

この後も国王は首相・大臣任免権、貴族創設権、議会解散権、条約締結権、宣戦布告権など重要な国王大権を温存したが、それらも慣習によって大臣の助言が必要とされるよう制限されていき、現在に至る[13]

しかし慣習はあくまで慣習でしかなく、制定法上では現在でも国王は個人裁量だけで様々な国王大権を行使できるはずである。たとえば議会を通過した法案を国王が裁可を拒否することについて制定法上の制約はない。しかしアン女王を最後に3世紀にわたってこの大権を行使した国王はおらず、そのため行使しないことが慣習となっている(この慣習がどのような場合にも絶対的であるかは議論が分かれる)[14]

現在では国王大権は慣習によりほぼ大臣によって決定されるため、国王大権は政府が持つ政治的権限を覆い隠す法的擬制になっている[15]。ただ19世紀以降は制定法で閣僚・官僚・公務員の権利・義務が明文化され始めたので、国内では政府の権能の法的根拠として国王大権が持ちだされることは減少傾向にある。対して外交面ではいまだ国王大権が法的根拠とされる事が多い[16]
国王大権に属する権能
立法ウィリアム4世は、大権を用いて専断的に議会を解散した最後の君主である。

歴史的には立法は枢密院における王が行う(枢密院勅令)ことが多かったが、徐々に議会における王に移った[17]

立法のうち、制定法の執行を停止することや間接税賦課を行うことは1688年権利章典により国王大権と認められていない[18]
法案の裁可

慣習により、君主は常に法案を裁可する。国王による法案裁可拒否は、アン女王が1707年にスコットランド民兵法案を拒否した事例を最後に行われていないが、これは直ちに拒否権が失われたことを意味するものではない[19]


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