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政府が作成した豪華版ポスター「雄飛報国之秋」
国民精神総動員(こくみんせいしんそうどういん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:國民精󠄀神󠄀總動員)は、大日本帝国政府が1937年(昭和12年)9月から行った軍国主義政策の一つ。「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)」を涵養すべく推進した、官製の国民運動[1]。略して精動とも。消費節約、貯蓄奨励、勤労奉仕、生活改善などを旨としたスローガンがメディアを通じて提唱され、国民の戦争協力体制構築を図った。 1937年(昭和12年)7月7日に起こった盧溝橋事件以降の、日中戦争(支那事変)を契機に、第1次近衛内閣は女性や子供など非戦闘員を含む国民全員の戦意を昂揚させ、戦争遂行に協力させようとの目的で、同年8月24日、「挙国一致
概要
長期戦と物資不足が懸念されていた日中戦争および、のちに加えて太平洋戦争に際して、「ぜいたくは敵だ!」などの標語(後述)を街頭・新聞などで掲げたほか、パンフレットや教育映画・ラジオなど、メディアを使った宣伝に努めた(プロパガンダおよびマスメディアの戦争責任も参照)。子供向けには銃後支援、軍事援護、国民貯蓄奨励などを題材にした国策紙芝居が製作され、小学校を中心に上演された[3]。当初は精神運動の性格が強かったが、やがて国民服やモンペ姿を男女の制服として推奨する教化運動[4]など、具体的な国策協力を中心とするようになり、国民に耐乏生活を強いるにいたった。また、1938年(昭和13年)までに銀行や会社の多くが半ドンを返上、労働強化も進められた[5]。上意下達型の運動の限界もあり、まもなく一般社会には不満が鬱積し始めた。
1939年(昭和14年)3月28日、官側の組織として「国民精神総動員委員会」が設置され(勅令「国民精神総動員委員会官制」公布)[1]、運動は官民二本立てで進められた。6月16日、国民精神総動員委員会は、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止、パーマネント廃止などの「生活刷新案」を決定した。9月1日以降は、毎月1日に「日の丸弁当」を奨励する興亜奉公日が設けられた[1][6]。
1940年(昭和15年)4月[1]に運動組織が内閣総理大臣を会長とする「国民精神総動員本部」に一本化されたのを期に、上流階級を狙い撃ちにする戦術に改められ、一定の効果をあげた。国民精神総動員本部は同年10月[1]、生みの親であった近衛文麿を中心とする新体制運動の動きに合わせて大政翼賛会に吸収されて消滅したが、戦意昂揚のための宣伝自体は事実上続けられた。
国民精神総動員運動は、対内において、国際収支均衡確保のための外貨獲得政策となり、対外において、日本の目的が西洋的覇道でなく「八紘一宇の大理想」、換言すれば「東洋の王道」に基づき、「人類共同の敵たる共産主義」の絶滅にあることを明確にする役目を担った。