国民歌謡
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この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年8月)

『国民歌謡』(こくみんかよう)は、戦前の1936年から1941年の期間、月曜から土曜の午後0時35分から5分間、新しく作った曲を1週間連続して流した、日本ラジオ番組である。今日のヘビーローテーションに当たる。

後番組は、1941年2月12日から同年12月8日の期間は名前が「われらのうた」と変わり、さらにその後の、1945年8月15日までは「国民合唱」となり、戦後は「ラジオ歌謡」となった。
概要「渡辺はま子#「ネエ小唄」騒動」も参照

1936年当時は「エログロナンセンス」と呼ばれる時代であり、歌謡曲においても「エロ歌謡」と呼ばれるジャンルが流行していた。

これに対し、JOBK(現在のNHK大阪放送局)を中心に開始された[1]。この試みは成功し、『椰子の実』(1936年)などのヒット曲が多数生まれた。

国民精神総動員、日中戦争の勃発(1937年)などに伴い、次第に戦時色の強い「戦時歌謡」が増加。戦時体制を翼賛するためのプロパガンダ番組へと展開していく。
歴史
新歌謡曲

1936年4月29日の午後2時15分から50分までの35分間、JOBK(大阪放送局)は「新歌謡曲」という番組を、桃谷演奏所から全国放送した。この番組の発案者は、当時JOBKの文芸課長であった奥屋熊郎で、その主旨は「家庭で歌える流行歌を独自に作ろう」というものであった。

放送した曲目は、「夜明けの唄」、「防人のうた」、「早春の物語」、「乙女の唄」、「心のふるさと」、「野薔薇の歌」、「希望の船」、「旅から旅へ」、「日本よい国」の9曲。初めの3曲を奥田良三、後の4曲を関種子が歌ったが、後の曲は時間がなく放送できなかった。この曲は、このために作られた新しい曲であった。

第2回は、同年5月17日午後8時15分から20分間全国放送された。曲目は、「祖国の愛」、「ヨットの唄」、「若き妻」、「娘田草船」、「若葉のハイキングに」と前回放送できなかった「日本よい国」であった。唄は、内本実四家文子が歌った。ところがこの時も時間の都合で、「日本よい国」が放送できなかった。当時は、まだ支那事変日中戦争)前で、政治色はこれ以降の曲と比べて控えめである。
国民歌謡

前述した「新歌謡曲」の放送の成功を受け、JOBKはこの番組を定期放送することとなった。その際、「新歌謡曲」に代わる良い名称はないかと考えたが、あまり良い案が出ず、「国民歌謡」ということに落ち着いた。

初回の放送はJOBK大阪放送局より、1936年6月1日の午後0時35分から始まった。月曜から土曜の5分番組としてのスタートであった。この時になってようやく、「日本よい国」(作詞・今中楓渓、作曲・服部良一)が放送された。

定期放送第一週「日本よい国」の後、6月8日からの第二週は詩吟の放送であったが、6月15日からの第三週は、島崎藤村作詞の「朝」となっていた。定期放送になって初めてJOAK(東京中央放送局)が制作した曲で、歌唱は、テノール歌手永田絃次郎が行った。これが、国民歌謡のヒット曲第一号となった。それからも定期的に「朝」を放送し、普及に努めた。

国民歌謡は同じ曲を何度も取り上げるのが特徴で、1940年までに、国民歌謡で放送された同曲を歌ったのは永田絃次郎、オリオンコール、青山薫、日置静、奥山良三、阿部幸次、鈴木秀雄、吉村寿、藤山一郎、大阪放送合唱団、嘉納愛子、ルナ・オリオンコール、ブリランテ混声合唱団、ユーフォニック、柴田睦陸、日本放送合唱団、蒋玉柞ら17組に及んだ。

「朝」に続くJOAKが作ったヒット曲は、同じく島崎藤村作詞の「椰子の実」で、7月13日から放送された。この曲を最初に歌ったのが東海林太郎で、今までクラシック系の歌手を起用していた国民歌謡としては斬新な試みであった。また、流行歌歌手の登場も初めてのことであった。この曲も多くの歌手によって歌われ、二葉あき子、関種子、松田トシら数十名の歌手に及んだ。
1936年

1936年10月20日付けで、「国民歌謡選曲集」という楽譜が発売された。「心のふるさと」、「祖国の柱」といった曲を収録している。

第二集から「国民歌謡」と改題され、二曲収録の物が月に一冊から三冊のペースで発行された。

当時日本ビクター顧問だった長田幹彦は、「ああいった所謂健全な流行歌を何十万何百万となくプレスして市場へ送り出しているが,いずれも返品となって倉庫へ逆流してきて,今では持て余されている状態」と述べている[1]
1937年

1937年になると、JOBKも新しい曲をヒットさせた。新年早々に出した「月の出島」が好評で、これは佐藤惣之助の詩に内田元が曲を付けたものである。内田は続いて、「春の唄」を作曲した。3月1日から月村光子の歌で放送され、喜志邦三の詩もよかったため、多くの人々に愛唱されヒットした。

JOAKでは、「牡蠣の殻」の評判がよかったが、やはり「新鉄道唱歌」(作詞・土岐善麿、作曲・堀内敬三)が一番であった。鉄道唱歌といえば、明治に作られた「汽笛一声新橋を・・」を思い浮かべるが、いつまでも明治ではと、現代のモダンな鉄道を歌おうと作られたものである。5月3日から、加藤梅子(由利あけみ)と中野忠晴の歌で放送された。

当初は「新鉄道唱歌」として放送されたのだが、好評であったため続編を数々作った。曲は同じで詞が違うというものである。西條八十作詞の「東海道編」、佐佐木信綱作詞の「伊勢路」、「尾張、美濃、近江路」、与謝野晶子作詞の「近畿」、翌年には杉山長谷夫が新しく曲を付け、「上野?仙台」、土井晩翠が「高崎?直江津」、相馬御風が「直江津?金沢」を作詞している。

1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると、歌の世界もしだいに戦時色が濃くなり、戦時歌謡の方向へ曲げられ始める。それは、国民歌謡が誕生してわずか1年のことであった。

8月23日から放送した「千人針」もこうした例の一つである。この千人針は、作詞のサトウハチローポリドール専属、作曲の乗松昭博がビクター専属と会社が違うためレコードは製作されなかった。そこでポリドールは、長津義司が似たような曲を付け、関種子の歌でレコード発売した。ビクターは、佐伯孝夫が別の詩を付け、「街の千人針」と題し、江戸川蘭子の歌でレコード発売されている。

同年、12月27日からは「愛国行進曲」が放送された。この曲はJOBK、JOAKが作った曲ではなく、内閣情報部が選定し、放送されたものである。この曲は、各レコード会社から発売されている。

戦時中とあれ、戦時歌謡ばかりという訳ではなく、10月18日からJOBKで放送した「愛国の花」(作詞・福田正夫、作曲・古関裕而)のように、渡辺はま子の歌で広く愛唱された曲もある。この年の国民歌謡は、午後0時23分から7分間に2曲聞かせる形の放送に変更していた。この時に放送されたのが、「海ゆかば」であった。
1938年

1938年になると、国民歌謡は、昼の番組から夜の番組に変わった。番組としては、昇格というかたちであった。

1月5日の午後7時30分から、「国民唱歌」という番組が放送された。東京シンフォニック・オーケストラの歌で、「金塊集より」、「子等を思う歌」、「戦勝の春」、「愛国行進曲」の4曲が登場した。

そして、10日から同じ時間帯で10分間、「国民唱歌」という題で、「愛国行進曲」の指導が始まった。まるで、「国民歌謡」が「国民唱歌」という題に変わったようであるが、31日からまた「国民歌謡」に戻った。この番組は2月7日に終了した。しかし、2月11日、20日にはまた「国民唱歌」が放送されている。そして、22日から、国民歌謡のレギュラーが再開した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この原因としては、前記した曲を国民唱歌として分離しようとしたが、うまくいかず、国民歌謡に組み込まれたということであろう。特に「海行かば」は、第二の儀礼的国歌として制定したかったという思惑があったと思われる[独自研究?]。
1939年

1939年には、夜番組になって聴取率が上がった弊害が出た。緊急番組のためしばしば放送が中止になってしまったのである。

割り込んでくる番組は、軍人や役人の講演が多かった。そこで考えられたのが、第二放送を行うということである。


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