国木田独歩
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国木田 独歩
(くにきだ どっぽ)

誕生1871年8月30日
日本宮谷県海上郡銚子(現・千葉県銚子市
死没 (1908-06-23) 1908年6月23日(36歳没)
日本神奈川県高座郡茅ヶ崎村西南湖下
墓地青山霊園
職業小説家・編集者
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京専門学校英語政治科中退
(現・早稲田大学
活動期間1894年 - 1908年
ジャンル短編小説
文学活動ロマン主義自然主義文学
代表作『武蔵野』(1898年)
『忘れえぬ人々』(1898年)
『牛肉と馬鈴薯』(1901年)
酒中日記』(1902年)
『運命論者』(1903年)
『春の鳥』(1904年)
『竹の木戸』(1908年)
デビュー作『愛弟通信』(1894年)
配偶者佐々城信子(1895年 - 1896年)
榎本治(1898年 - 1908年)
子供5人
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国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本小説家詩人ジャーナリスト編集者千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。

幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳がある。
生涯
誕生・少年期

1871年8月30日、国木田貞臣(専八、文政13年10月19日生)、淡路まん(天保14年12月27日生)の子として、宮谷県海上郡銚子に生まれた。父・専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐(戊辰戦争)後に銚子沖で避難し、吉野屋という旅籠でしばらく療養していた。そこで奉公していた、まんという女性と知りあい、独歩が生まれた。このとき専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎との間にできた連れ子がいたとされる。独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい。1874年、専八はまんと独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた。1876年には国元の妻と正式に離婚が成立している。この頃、専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は5歳から16歳まで山口、広島、岩国などに住んだ。

少年期、学校の成績は優秀で読書好きである反面、相当な悪戯っ子であった。喧嘩の時に相手を爪で引っ掻くことから「ガリ亀」と渾名された。自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられる。錦見小学校簡易学科山口今道小学校を経て、山口中学校(現:山口県立山口高等学校)に入学。同級の今井忠治と親交を結んだ。
学生・教師生活

1887年学制改革のために山口中学を退学すると、父の反対を受けつつも今井の勧めで上京。翌年に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学した。吉田松陰明治維新に強い興味を持ち、学生運動にも加わる。徳富蘇峰と知り合いになり大いに影響を受けると、その後一転して文学の道を志した。この年に処女作「アンビシヨン(野望論)」を『女学雑誌』に発表したほか、『青年思海』などの雑誌に文章を寄稿するようになる。さらにこの頃から教会に通うようになり、日本基督教会の指導者・植村正久を崇拝する。1889年7月10日、「哲夫」と改名。1890年9月には英語政治科へと転科した。ワーズワースツルゲーネフカーライルなどを好んだ。1891年1月4日に植村正久より洗礼を受けた。この年、学校改革と校長・鳩山和夫への不信のために同盟休校を行ない、間も無く退学した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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