国映
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国映株式会社
KOKUEI Co,.Ltd.
種類株式会社
市場情報非上場
略称国映
本社所在地 日本
〒104-0061
東京都中央区銀座8-3
高速道路ビル102号
設立1958年昭和33年)8月
業種情報・通信業
法人番号7010001043049
事業内容映画の製作・宣伝及び試写室運営
代表者矢元一臣
資本金1000万円
主要子会社日本放送映画1968年解散)
関係する人物矢元照雄(国映創業者)
矢元一行(朝倉プロ代表)
佐藤啓子(国映2代目社長)
新倉雅美(日放映動画スタジオ代表)
特記事項:1960年代にはテレビアニメ事業にも進出。日本テレビ専属のアニメ制作プロダクション日本放送映画(後に『ドラえもん』を制作した日本テレビ動画の前々身)を運営していた。
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国映株式会社(こくえい)は、矢元照雄1958年(昭和33年)に設立した東京映画会社。日本を代表するピンク映画の老舗プロダクションであり「日本最大のエロダクション」と謳われた[1]目次

1 概要

2 事件

3 日本放送映画

3.1 テレビアニメ

3.2 未放映作品


4 備考

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

概要

前身は矢元照雄1955年(昭和30年)に設立した大和映画(だいわえいが)である[2]。大和映画時代の代表作に1957年公開のドキュメンタリー映画『われ真珠湾上空にあり 電撃作戦11号』(構成・原千秋)があり、これは日本軍が勝利した場面のみを収めたエクスプロイテーション映画だったが、わずか800万円の製作費で7000万円もの収益を上げたという[2]

初期こそは教育的かつ文芸的な面が強かったが[3]、当時テレビの普及で職を奪われたニュース映画及び教育映画関係者達が糊口を凌ぐために「お色気」をテーマにした短編・中篇映画を群小プロダクションが多数制作(これを同じく衰退しつつあった小規模なニュース映画専門館に供給)しており、国映も作品カラーを大きく変え、「エログロ」に代表される徹底した娯楽、大衆路線となる。

1965年には矢元の息子で国映専務となっていた矢元一行(のちに「朝倉大介」の名前で映画監督として活躍、1968年には朝倉プロを設立、朝倉大介の名義はやがてブレーンのグループ名義になる[4])のプロデュースで若松孝二大和屋竺を起用し、特に若松が監督した『情事の履歴書』は3000万円の配収を売り上げるヒットを記録[5]。のちに続編が向井寛山下治の手によって3作目まで国映で作られた[5]

この頃には大蔵映画と並んで日本を代表するピンク映画の制作プロダクションとして名を馳せるようになり、1960年代には独自の配給網を持っていた。途中、1973年には日本シネマと共同配給会社「国映シネマ」を設立(翌年解散)したりしながらも、1974年新東宝興業に配給業務を委託するまで作品の配給を続けた。また、直営館も存在していた。1990年代からは、積極的に他社との共同制作に乗り出し、ピンク四天王ピンク七福神と称される多数の若手監督を輩出した。

ピンク映画の専門の上映館が減少し、映画の撮影と上映がフィルムからデジタルへと移行する中、35ミリフィルムでの「ピンク映画」製作にこだわり続けたが、2013年12月公開の『1BR-らぶほてる』(大西裕監督)をもって完全デジタル製作に移行となった[6]。現在はピンク映画製作のほか「TCC試写室」としてレンタル試写室の営業も行っている。

ちなみに「ピンク映画」という呼称は、国映が1963年に公開した『情慾の洞窟』(関孝二監督)を取材した内外タイムス村井実が考案したものである。特に国映が前年の1962年に製作して大ヒットした女ターザン映画『情欲の谷間』が今日ではピンク映画の萌芽としてみなされているが、この映画自体が矢元照雄のアイデアであり、関孝二は当時を回顧して「私がピンク映画のパイオニアなら企画した矢元社長はそれ以上の存在だ」と語っている[7]

2018年からは現存するフィルムの劣化を踏まえ、インターフィルム、ドイツの映画会社ラピッド・アイ・ムービーズと組み、新たなプリント製作と4Kデジタル化の作品修復・保存プロジェクトを進めている[8]。修復作品はベルリン国際映画祭などで公開されている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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