国後
熱田島旭湾の国後(1942年)
基本情報
建造所鶴見製鉄造船鶴見工場
運用者 大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
艦種海防艦(大日本帝国海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
級名占守型海防艦
建造費3,060,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画B計画
起工1939年3月1日
進水1940年5月6日
竣工1940年10月3日
最期1946年6月4日、座礁ののち放棄
除籍1945年10月5日(日本海軍)
1947年6月26日(復員庁)
その後1947年7月、解体終了
要目(併記無き限り竣工時)
基準排水量860トン
公試排水量1,020トン
全長78.00m
最大幅9.10m
吃水3.05m
主機22号10型ディーゼル 2基2軸
推進2軸
出力4,500hp
速力19.7ノット
燃料重油220トン
航続距離16ノットで8,000海里
乗員竣工時:定員150名[注釈 1]
1942年7月1日時点:定員146名[注釈 1]
兵装三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x18個
搭載艇短艇x4隻
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国後[注釈 2](くなしり)は、日本海軍の海防艦[1][2]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては運送船「国後丸」(くなじりまる)[3][4][注釈 3]に次いで2代目。艦名は国後島にちなむ。 軍艦(ぐんかん)国後(くなしり)は、日本海軍が1939年(昭和14年)3月から1940年(昭和15年)10月にかけて建造した海防艦[2][5]。建造当初、海防艦は軍艦として扱われていた[6][7]。だが1942年(昭和17年)7月の類別変更にともない[8][9]、軍艦籍より除籍されて海防艦(かいぼうかん)国後(くなしり)に改名[8]および類別変更された[10]。海防艦としては、占守型海防艦の2番艦である[10][11]。 占守型1番艦の占守が東南アジア方面で行動したのに対し[12]、残る占守型3隻(国後、八丈、石垣)はアリューシャン列島や千島列島など、主に北東方面海域で行動した[1][13]。本艦は1943年(昭和18年)7月のキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)に参加[1][14]。作戦従事中の7月26日、国後は軽巡洋艦阿武隈(第一水雷戦隊旗艦、司令官木村昌福少将)に衝突、これが原因で駆逐艦複数隻(若葉、初霜、長波)の多重衝突事故を引き起こした[15][16]。終戦後は復員輸送に従事したが、1946年(昭和21年)6月に静岡県御前崎で座礁(救援にきた駆逐艦神風も座礁)、2隻とも放棄された[17]。 B計画の1,200トン型海防艦[18][注釈 4]、仮称艦名第10号艦として計画。1939年(昭和14年)3月1日、鶴見製鉄造船株式会社鶴見工場[注釈 5]で起工[5]。1940年(昭和15年)2月23日、日本海軍は建造中の敷設艦を津軽(横須賀海軍工廠)、海防艦2隻を国後(鶴見製鉄造船)と八丈(佐世保海軍工廠)、駆逐艦2隻を嵐(舞鶴海軍工廠)と萩風(浦賀船渠)と命名[2]。5月6日、国後は進水[5]。同日附で清水利夫 竣工から間もない1940年(昭和15年)10月15日、清水利夫中佐(国後艦長)は神風型駆逐艦4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)で編成された第29駆逐隊司令へ転任[24]。
概略
艦歴
竣工まで
軍艦 国後