国府
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本の各令制国の首府について説明しています。その他の用法については「国府 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
東京都府中市にある武蔵国府跡国衙遺構

国府(こくふ/こう)は、日本奈良時代から平安時代に、令制国国司政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。と言われているが、島根県の浜田市下府町には古墳時代の第30代敏達天皇の15番目の皇子「池上但馬」が国司としてこの地に派遣されたと言われている。又、従者には侍という名称も使用されていたという。(池上家伝による)

国府付近には国庁のほかにも国分寺国分尼寺総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法軍事宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。

律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市姫路市岡山市大分市など大きな都市として発展している。
国府の施設と配置

律令において、令制国の中心地である国府には、国司が政務を執った国庁等重要施設が設置されており、国庁の周囲は土塀等によって区画されていた。国庁とその周りの役所群を国衙(こくが)といい[1]、それらの都市域を総称して国府という。現在は役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いているが、国府と国衙を同一視する説もある[2]。その説によると、国府と国衙は、同時代的には置換可能な語で、歴史的には国府の方が先行し、8世紀には専ら国府という言葉が用いられ、平安時代後期以降に国衙が一般的になったとされている[3]

各国の差が小さいのは中心となる国庁で、区画の中に中庭を囲んで正殿、東脇殿、西脇殿を冂字形に配置し、南に正門を持つ。外形上最も整備された形では、南門から出る南北道と、これと交差する東西道が中心街路をなし、その他の官衙、国司館、その他施設が区画割りして配置される。しかし多くの場合国庁を取り巻く建物群の配置の規律は緩い。国府の内と外を区分する外郭線は、国府が城柵に置かれた様な例外を除き存在しない。

国府に限らず、律令制時代の日本では役所の建物を曹司といい、これ等がまとまった一区画をと呼んだ。国司館は、守館、介館など、国司の為に用意された公邸である。元々、国司は国庁で政務を執ったが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になった。国府には正倉が付属するが、奈良時代には徴税実務上郡の重要性が大きく、地方の正倉は大部分郡衙にあった(例として静岡県藤枝市の志太郡衙)。また工房があって、国府勤務の官人の需要に応じ、都に送る調庸物を生産した。役所や工房で働く人には、国厨(国府厨)から給食が出された。周囲には工房で働いたり様々な雑務を行う労働者が住む竪穴建物群や、更に市場もあった。水運の為に国府津と呼ばれる港が設けられることあった。また、都と各国府間における短時間での情報伝達と都への税の運搬のため、駅路(七道駅路)が造られた。

741年(天平13年)以降、国ごとに国分寺国分尼寺が建てられることになったが、それ以前から国府機能と密着した付属寺院を持つ国もあった。平安時代には更に総社が指定された。

これ等の施設が一箇所に集中して建てられると都市的な景観になったが、距離を置いて分散する例も多かった。国衙には国司の他、史生、国博士、国医師、徭丁などの職員が勤務しており、小国で数十人、大国では数百人の人数規模だった。全体としての人口は、畿内以西の各国や大宰府の様に多い所で2、3千人に達したと推定されている。
国府の推定と発掘

国府は、室町時代には完全に消滅し、所在不明となった所が多かった。和名類聚抄が国府があった郡を伝えるが、それ以上に絞り込むのは難しかった。1960年代までの研究では、「国府(こう)」、「国分寺」、「総社」、あるいはそれと似た地名が探索され、他の状況証拠と併せて様々に位置が推理された。しかし推定地は通常複数唱えられ、決め手を欠いた。国府の具体像に関する知識は皆無に近かった。

1964年に近江国府が発掘されてから、国府跡の遺跡が次々と発掘されるようになり、状況は劇的に変わった。併せて郡衙国分寺等の遺跡も見つかり、これらと照らし合わせて国府に共通する特徴が浮かび上がってきた。奈良時代から平安時代前半の国府は、区画と正殿・脇殿等で構成される国庁(政庁)の存在が他の施設にはない特徴で、これが国府の中心施設であった。したがって、国庁を発見した時点で国府位置確定とみなされている。

発掘が始まった当初、国府は平城京平安京のような中央の都城の縮小版と考えられていた。方形の外郭線を持つ都市が国府で、その中心に国衙という役所群、更にその要に国庁があるという三重構造が想定された。発掘が進むと、国府に明確な外郭線が存在しないこと、都市域は付け足し程度で官衙域を包み込むほどの広がりを持たないことなどが判明した。しかし、計画的な道路の敷設は認められる。下野国国庁の南正面に南北道路が、伊勢国では国庁北側の一部に方格地割りが、大宰府では10世紀の方格地割りが認められる。

2007年現在、国府位置が判明した国は多いが、なお不明の国もある。国府の発掘は面積的に一つの都市を掘り出すのに等しいため、位置が確定しても全貌を完全に解明したことにはならない。各地で国府の発掘調査が続いている[4][5]
国府の一覧表(国府所在郡)を記載した史料
和名類聚抄』20巻本

『色葉字類抄』とその増補版の『伊呂波字類抄』10巻本

拾芥抄(しゅうがいしょう)』

易林本の『節用集』


サイト上の大学図書館のデジタルアーカイブシステムなどで、原文の詳細を読むことができる。

各史料によって、国府の異同、国府の記載なし、国府所在郡のみで郷名の記載なし、などから、国府の時代による移転説、国府所在候補地が複数挙がり論争になる。

史料が平安時代中期以降の編纂のため大化の改新?平安時代初期の初期国府と史料記載国府は違うと見る説、国分寺や総社のあった場所に国府もあったと見る説などがあり、国府の選定には注意を要する。

一覧

「所在郡」は『和名類聚抄』・『拾芥抄』・『伊呂波字類抄』に記載されたもので、異なる場合は各々を記載(類:和名類聚抄、拾:拾芥抄、伊:伊呂波字類抄)[6]。「所在地」の(推定)は推定地、変遷したと推測されるものには番号を付記。

便宜上、史跡には「国衙跡」・「国庁跡」という名称のものも追加(史跡名称に附指定は省略)。ただし、表のもの以外に異説もある。

国名等級所在郡名所在地史跡指定
名称指定
畿内
山城国上国(類)河陽離宮
(拾)乙訓郡1.(推定)京都府木津川市山城町上狛
2.(推定)京都府京都市右京区太秦
3.(推定)京都府長岡京市神足
4.(推定)京都府乙訓郡大山崎町大山崎 (河陽離宮[離宮八幡宮])
大和国大国高市郡(推定)奈良県大和郡山市今国府町または高市郡高取町下土佐
河内国大国(類)志紀郡
(拾)大県郡大阪府藤井寺市国府・惣社 (志貴県主神社付近)
和泉国下国和泉郡大阪府和泉市府中町
摂津国上国(類)記載なし
(拾)西生郡1.(推定)大阪府大阪市天王寺区国分町・生野区生野西
2.(推定)大阪府大阪市中央区法円坂または森ノ宮中央
東海道
伊賀国下国阿拝郡三重県伊賀市坂之下伊賀国庁跡国の史跡
伊勢国大国鈴鹿郡1. 三重県鈴鹿市広瀬町伊勢国府跡国の史跡
2. (推定)三重県鈴鹿市国府町
志摩国下国英虞郡三重県志摩市阿児町国府
尾張国上国中島郡愛知県稲沢市国府宮町


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:53 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef