国府台の戦い
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第二次国府台合戦の激戦地となった、千葉県松戸市矢切にある西蓮寺と野菊苑の間の坂道「大坂」[1]

国府台合戦(こうのだいかっせん)は、戦国時代下総国国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦である。天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別される(「第二次合戦」は近年まで同じ国府台で行われた2回の合戦を同一の合戦のものと誤解されてきたために1個の合戦として扱われている)。
目次

1 国府台城

2 第一次国府台合戦(天文7年/1538年)

2.1 背景

2.2 小弓軍の内訌

2.3 戦闘

2.4 戦後

2.5 「関宿城」目標説


3 第二次国府台合戦(永禄6年・永禄7年/1563年・1564年)

3.1 背景

3.2 開戦の契機

3.3 遠山・富永・舎人の死

3.4 北条軍の反撃

3.5 近年の再検証

3.6 戦後


4 史跡

5 脚注

6 参考論文

7 外部リンク

国府台城

国府台城は元々千葉氏の分裂の際、馬加康胤討伐に向かった太田道灌が築いたものとされる。以後、下総国の玄関口的な役割を果たすとともに房総方面から武蔵国に攻める際の橋頭堡の役割を果たす事になった(逆に言えば、政治的役割は非常に低い城であったとも言える)。
第一次国府台合戦(天文7年/1538年)

第一次国府台合戦
戦争:
戦国時代
年月日:天文7年(1538年
場所:下総国相模台(千葉県松戸市
結果:足利義明の敗死
交戦勢力
足利義明軍北条軍
指導者・指揮官
足利義明 
里見義堯
真里谷信応北条氏綱
北条氏康
北条幻庵
戦力
1万2万
損害
--
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背景

古河公方足利政氏とその子の足利高基が不和になると、高基の弟・空然は還俗して・足利義明と名乗った。義明は下総国高柳から、上総国真里谷武田氏五代当主の真里谷信清によって下総国小弓城に迎え入れられる。義明が東北地方を流浪していたとするのは根拠のない俗説で完全な誤りである。

義明は真里谷氏に加え、里見氏等に擁立されて小弓公方と称され、古河公方千葉氏と対立して、鎌倉占領を目指した。ところが北条氏綱が台頭して鎌倉や武蔵江戸城を占領すると今度は義明と氏綱の関係が緊張する事になる。ただし、この時期の氏綱の最大の敵対者は扇谷上杉家であり、扇谷上杉家と同盟を結んでいた義明が1527年には氏綱と和睦すると、義明に従っていた里見氏や真里谷氏も倣い、更に反義明側にあった千葉氏までが義明に従っている。その後、義明が里見氏や真里谷氏の内紛に介入して江戸湾一帯にまで勢力拡大を図ると、氏綱と義明は対立する陣営を支援している。それでも、扇谷上杉氏との戦いを優先にしていた氏綱は義明との対立と和睦を繰り返す関係にあり、それは千葉氏・真里谷氏・里見氏と同様であった(その中で、里見義堯は家督相続の際に支援を受けた北条氏綱と一貫して協調している)。ところが、1537年6月に真里谷氏の内紛が再燃して、義明に追われて亡命してきた真里谷信隆(信保の庶長子)を氏綱が受け入れ、続く7月に扇谷上杉家の本拠であった河越城が陥落すると、義明としても北条氏の脅威を感じるに至った。同年12月に千葉昌胤が義明から離反し、翌1538年2月に氏綱が武蔵・下総の国境にあった葛西城を攻めると義明が守勢の扇谷上杉家を支援したことから、氏綱と義明の対立は必至となった。更に古河公方足利晴氏(義明の甥)も義明や山内上杉家との対抗上、氏綱と同盟を結び、この動きに千葉氏も合流した。一方、里見義堯はこれを機に氏綱と決別して義明方についた[2]

ここにおいて、義明は氏綱との戦いを決意する。1538年10月、義明は里見義堯真里谷信応ら軍1万を従えて、国府台城に入った。一方、氏綱も嫡男氏康や弟の長綱ら2万の軍を率いて江戸城に入った。
小弓軍の内訌

小弓軍は軍議にて、江戸川を渡河する北条軍を討つ事では合意した。だが、己の家柄と武勇を過信する義明は足利将軍の一族に本気で弓を引ける者などいないと考えて、自ら出陣して上陸した敵を討つと主張して、渡河中に敵を殲滅させるべきだと言う里見義堯らの主張を退けた。これでは勝利は覚束ないと考えた義堯は、義明を援けて敗戦の巻添えを食うよりは義明を見殺しにしてその「空白域」に勢力を伸ばす事を考え、主戦場になるであろう松戸方面ではなく、その裏道(退路として利用可能な)である市川側からの挟撃に備えると称して陣を動かしたのである。
戦闘

10月7日軍師根来金石斎(大藤信基)の進言により渡河を終えた北条軍は、小弓軍と国府台の北の相模台(現在の松戸市)で衝突した。初めは小弓軍優勢であったものの、次第に数で優勢な北条軍が押し始めた。しかも、弟・基頼(もとより)や息子・義純の討ち死に報が入った義明が逆上して北条軍目がけて自ら突撃を図り、北条軍の兵士の弓に当たって戦死した。里見義堯は「義明戦死」の情報を手にするや、結局一度も交戦することなく戦場を離脱、小弓軍は崩壊したのである。勢いに乗った北条軍は小弓城を続いて真里谷城を押さえて、真里谷信応を降伏させて再び異母兄・信隆を真里谷氏当主にした。
戦後

この戦いの結果、北条氏の勢力は下総にまで浸透する事になった。一方、義明の戦死と真里谷信隆の復帰によって勢力地図が一変して権力の「空白域」と化した上総国南部にはこの戦いでほとんど無傷であった里見義堯が進出し、真里谷氏の支配下にあった久留里城大多喜城などを占領して房総半島の大半を手中に収めることになった。
「関宿城」目標説

なお、近年において、義明の最終的な攻撃目標は鎌倉ではなく、下総国関宿城であったとする説が出されている。

足利義明は国府台合戦の4ヶ月前の6月に記された関東管領上杉憲政の書状では義明の目標は関宿城であるとする見解が述べられている(「小林文書」)。関宿城は当時の下総北部における水運・交通の重要地点であるとともに、古河公方の最大の支城であった。正当な古河公方であると主張する義明がその本拠である古河御所を占領するために関宿城は必ず抑える必要がある場所であった。実際、義明は小弓城入城以来、関宿攻略の意向を里見義通(義堯の伯父)ら自派の有力者に度々伝えていた。小弓から関宿に向かう最短距離は本佐倉城から印旛沼常陸川を経由する方法であったが、本佐倉城は古河公方と結ぶ千葉氏の本拠地であり同氏の抵抗を受け、却って自派の臼井氏が千葉氏に屈服させられるなど困難を極めた。そこで義明は千葉氏の勢力圏の外縁である国府台を占領し、ここから太日河(江戸川)を遡って関宿城を目指したと考えられる。実際に義明は合戦前の6月に国府台の近くの弘法寺に対して寺領の安堵を約束する文書を発給しており、国府台の確保は事前に計画されていた可能性を示している。ところが、国府台の対岸の葛西城までを支配下に置いた北条氏としてはこの動きを容認できず、義明の意図を阻もうとしたのが今回の国府台合戦であったというものである[3]
第二次国府台合戦(永禄6年・永禄7年/1563年・1564年)


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