国家神道
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靖国神社が描かれている五拾銭紙幣

国家神道(こっかしんとう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:國家神󠄀道󠄁)は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度[1][2]、あるいは祭祀の形態の歴史学的概念である。皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道(じんじゃしんとう)」(神社を中心とする神道)を指す語である[3]

王政復古を実現した新政府は、1868年(明治元)、祭政一致神祇官再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神社から仏教的要素を除去した。その後、政府主導の神道国民教化策が不振に終わると、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を「国家の宗祀」と位置づけ、神社神道を他の諸宗教とは異なる公的な扱いとした。ここに国家神道が成立し、教化など宗教的側面にかかわる教派神道と役割が分担されることになった[3]

「国家神道」という言葉は1945年(昭和20年)に、GHQによる神道指令によって使用されて、この時に初めて一般に広まったものである[3]
概要楊洲周延作「本朝拝神貴皇鏡」1878年(明治11年) 明治天皇皇后の左右に描かれた烏帽子姿の5人は、明治天皇の先祖にあたる天皇で、その後ろに長衣(ながぎぬ:裾の長い衣装)を着た日本神話の神々を配する。 神武天皇は弓を携え、その弓には「金鵄」と呼ばれる黄金の鵄(とび)が止まっている。明治天皇と皇后を主役としながら、神武天皇を神々の1柱として表している。[4][5]
定義

神道指令では、国家神道は「日本政府の法令に依って宗派神道或は教派神道と区別せられたる一派を指す」とされており、この定義に基づけば、国家神道は神社非宗教論が採られ、神官教導職分離が行われた1882年(明治15年)あるいは内務省神社局が成立し、神社行政を他の宗教行政と区別して扱うようになった1900年(明治33年)以降に行われた、神社・神職・祭祀などに対する様々な国家的制度を指すことになる[6]

研究者における「国家神道」の定義に関しては、いわゆる「広義の国家神道」と「狭義の国家神道」という2種類の定義に分かれる[6]。「広義の国家神道」は、広く皇室神道と神社神道が合体した「国教」的地位にあった神道であるとか、「明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、国家のイデオロギー的基礎となった事実上の日本の国教」といった概念規定を指す[6]。一方で「狭義の国家神道」は「戦前の国家によって管理され、国家の法令によって行政の対象となった神社神道」とする限定的な定義を指す[6]

前者の代表論者である村上重良は、国家神道は、宗教の範疇を超える国家祭祀として他の公認宗教に君臨する体制であり、教育勅語が天皇制的国民教化の基準として発布されて国家神道のイデオロギー的基礎をなし、一神教的な天皇観( 現人神 ) が戦争と宗教弾圧を生み出したとし、近代を「国家神道体制」が右肩上がりに強化されていった時代と捉えた上で、昭和前期を「天皇制ファシズム」の時代とし、国家神道はこの段階において絶頂期を迎え、国民に対する精神的支配の武器となったと主張した[7]

一方、こういった村上の主張に対しては反論も相次いだ。葦津珍彦は、村上らの国家神道論を、国家神道の概念を各人各様にほしいままに乱用するものであり、明白にしてロジカルな理論や史観史論が成立し得ないと指摘し、「国家神道」の定義を、GHQの「神道指令」に示された定義のままに用いるべきとした[7]。これがいわゆる「狭義の国家神道」の立場であり、これを継いだ阪本是丸は、近代天皇制を規定したイデオロギーやイデオロギー装置は、神道のみならず仏教、儒教、キリスト教、新宗教、あるいは通俗的道徳思想、西洋思想など様々であり、近代天皇制のイデオロギーを「国家神道」の一言で表現することはできないとし、村上らの国家神道論は、天皇制、あるいは国家主義、国粋主義に関係するイデオロギーやイデオロギー装置ならばすべて国家神道に総括・包含してしまうものであると批判した[7]

他方、村上の「広義の国家神道」論を修正的に継承する意見もあり、島薗進は、天皇現人神観や神社神道は国家神道の基底ではないとして、神社神道を国家神道の基体とする見方を村上説の欠点と指摘し、国家神道は、「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態」であると定義し、皇室祭祀や学校教育・国民行事・マスメディアと神社神道とが組み合わさって形作られたものであるとして、皇室祭祀を国家神道の中心的要素と定義した[7]

近年では、国家神道という概念規定や名称そのものを再検討する動きも広がっており、安丸良夫は、村上の論を「国家神道体制」なるもので近代日本の宗教史を覆ってしまう結果となり、多様な宗教現象をひとつの檻のなかに追いたてるような性急さが感じられる、として批判し、近代において諸宗教の上に君臨したのは「国家神道」ではなく、教育勅語に表された「国体論的イデオロギー」であり、天皇の権威は神道を含む特定の権威と結びつくものではなかったと指摘した[7]

また、磯前順一は「天皇制国家は神社だけでなく、時期によって学校教育や宗教教団など、さまざまな回路を通して国民の規律化と抑圧を進めていったのであり、それを一律に国家神道と名づけることは当時の理解と乖離するものである」と指摘し、国家神道を政府の神社政策として限定的に定義づけたうえで、それを天皇制国家を支えるイデオロギー装置の一部として位置づけなおす必要があると指摘した[7]。すなわち、磯前は「近代天皇制国家を支えるイデオロギー装置」の全体の中の一つとして、「国家神道」を意義づけるべきであると指摘したのである[7]

同様の見解をとる者に山口輝臣があり、山口は「近代日本における国家と宗教との関係を研究することは、すなわち国家神道を研究することである、とは言えなくなった」とし、国家神道研究という枠組みにとらわれずに近代日本における国家と宗教との関係へと接近する必要があるとした[7]

新田均は、国家神道の根幹をなす神社非宗教論を政府に採用させたのは浄土真宗であることなど、近代日本の宗教政策に対する浄土真宗の一貫した強い影響力から、近代日本の政教関係全体を包含する用語として、「国家神道」という用語を用いるのは適切ではないと指摘し、代わりに「公認教制度」などと捉え直すべきであるとし、「現人神」の思想は神道のみならず仏教や儒教の要素も色濃くあり、一般国民への神社参拝の強制といえる現象も満州事変以降のものでしかないとして、「現人神」「神社神道」「神社参拝の強制」などを主要な構成要素とする 「広義の国家神道」論は成り立たないと主張した[7]
内容

大日本帝国憲法では、文面上は信教の自由が明記されていた[8]ため、仏教各宗派やキリスト教教派神道その他国家に公認された宗教教団の並立が認められた[9]。しかし、神社を宗教ではないものとする神社非宗教論[2]という公権法解釈[10]に立脚し、“神道・神社を「国家の宗祀」として公的に位置付けることは憲法の信教の自由とは矛盾しない”との公式見解が示された[9]。また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。このように宗教的な信仰と、神社と神社祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある。政府が神社非宗教論の解釈に立った背景として、伊藤博文を中心とする明治政府は、憲法制定にあたって「我が国において宗教の力は微弱であり、神道であっても仏教であっても、一つも国家の基軸たるべきものはない」と考え、皇室を国家の基軸とするべきであると考えた結果、「国教」を立てないアメリカ型の政教分離を導入した[11]ことや、長州藩との関係が強かった島地黙雷らの浄土真宗の勢力が、神道の国教化を防ぐため積極的に「神道は未開のアニミズムの類であって、宗教の要件を満たさない」などと神道非宗教論を進言して宗教界から神道を追い出そうとしたことも大きな要因である[12]

大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが[8]、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた[注 1]


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