国定忠次
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この項目では、実在の人物について記述しています。漫画『ドカベン』の登場人物の同名の人物については「国定忠治 (ドカベン)」をご覧ください。

 凡例国定 忠治
国定忠治の肖像(田崎草雲画)
時代江戸時代後期
生誕文化7年(1810年)
死没嘉永3年12月21日(1851年1月22日)
別名国定忠次
子国次[注釈 1]
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国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎。

後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談浪曲映画新国劇大衆演劇などの演劇の題材となった。特に新国劇の『國定忠治』は劇団の財産ともなり、劇団解散まで繰り返し上演された。赤城天神山の場での台詞「赤城の山も今夜を限り」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及した(後述)。

群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺がある。

現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手によるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。
生涯養寿寺にある墓
周囲が柵で囲われている。

上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。長岡家の菩提寺である養寿寺の墓碑によれば父は、国定村の百姓与五左衛門、母は弘化2年(1845年)5月14日に死去している。

父与五左衛門が文政2年(1819年)5月20日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。

忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成した[注釈 2]

その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。また、忠治はこのころ発生した天保の大飢饉に際して家財を売り払って国定村の住民に施しをしたと伝わるが[3]、この話は群馬県高崎市生れの在野の歴史家・田村栄太郎により否定されている[4]。ただ、羽倉簡堂関東代官として支配所村々を巡視した天保8年(1837年)当時の日記「済?録」にも「山中ニ賊有リ、忠二ト曰フ、党ヲ結ブコト数十、客冬来、屡孤貧ヲ賑ス」[5]とあり(類似の記載は忠治の死後に記された「赤城録」にも認められる)、その実態は別として忠治が貧民救済に奔走していたこと自体は否定できない。その後、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。天保10年(1839年)には幕府は関東取締出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化も図った(この際、新たに任命された一人が羽倉簡堂が代官時代の手代である中山誠一郎)。

天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌年正月に忠治は帰還し主馬を殺害した[注釈 3]。さらに同年8月には関東取締出役の道案内(目明し)を務める三室勘助・太良吉親子を殺害し[注釈 4]、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された[9]。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した[10]。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。

その後、忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41。

忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた[11]。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという[11]。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという[12]。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」[12]

忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された[13]。また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妾・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている[14]

明治15年(1882年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている[15]
関連史跡・名所
群馬県

養寿寺・長岡忠治之墓(伊勢崎市)

善應寺・情深墳(伊勢崎市)

称念寺・家鴨塚(玉村町)

忠治とまどいの松(東吾妻町)

忠治地蔵(東吾妻町)

大戸関所(東吾妻町)

赤城温泉郷・忠治温泉(前橋市)


忠治とまどいの松

忠治地蔵

家鴨塚

大戸関所

忠治温泉

長野県

須坂市上町の寿泉院にある「地蔵堂」
[16]

長野市権堂町秋葉神社境内にある「国定忠治の墓碑」[16]


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