国学者
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この項目では、江戸時代の学問について説明しています。その他の用法については「国学 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
本居宣長(左)、契沖(中)、賀茂真淵(右)は「国学の三哲」とされる[1]。これは文芸を中心とした実証研究方法に注目する立場を反映したものである[2]

国学(こくがく、正字: 國學)は、日本江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学、皇朝学、古学(古道学)などの別名がある[3][4]皇学の基部学問でもある。その扱う範囲は国語学国文学歌道歴史学地理学有職故実神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。
概要本居宣長旧宅 (三重県松阪市殿町)
2階の書斎が「鈴屋(すずのや)」とされた。

それまでの「四書五経」をはじめとする儒教古典仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化思想精神世界)を明らかにしようとする学問である[5]。江戸時代中期、元禄のころの歌学者契沖が創始したとされるが[5]、後述のように、その源流は江戸時代の初期から既に現れ始めていた。なお「国学」の語が使われるようになったのは、契沖を学んだ荷田春満の頃からで、今日のように定着したのは、明治以降のことである[3]

国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠古文辞学の方法論より多大な影響を受けている。国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。

契沖以後の国学は、古代日本人の精神性である「古道」を解明していく流れと、実証により古典の文献考証を行う流れとに分かれて発展することとなる[5]

古道説は賀茂真淵本居宣長により、儒学に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた[5]。この古道説の流れは、江戸時代後期の平田篤胤に至って、復古神道が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて復古思想の大成から尊王思想に発展していくこととなった[6]

実証主義的な国学者としては、後述する塙保己一伴信友が知られる。
歴史
歌学としての国学の誕生契沖

国学の源流は、木下勝俊戸田茂睡らによって、江戸時代に形骸化した中世歌学を批判する形で現れた。そうした批判は、下河辺長流契沖の『万葉集』研究に引き継がれ、特に契沖の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めたことで高く評価された。彼らの『万葉集』研究は、水戸学の祖である徳川光圀が物心両面で支えた。水戸の『大日本史』編纂と国学は深い関連を持っている[7]

やがて伏見稲荷神官であった荷田春満が、神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。春満の弟子の賀茂真淵は、一部において矛盾すら含んだ契沖と春満の国学を体系化し、学問として完成させた。真淵は儒教的な考えを否定して、古い時代の日本人の精神が含まれていると考えた『万葉集』の研究に生涯を捧げた[8]
復古思想の流れ

荻生徂徠は「聖人の道」を明らかにすることを目的として、儒教経書を実証的に読み込む古文辞学を創始していた。また、大坂懐徳堂朱子学を学びながら「加上」という古学的な方法論により無鬼論(無神論)に至り、儒仏神道全てを批判した富永仲基がいた。真淵の門人である本居宣長は『源氏物語』を研究して「もののあはれ」の文学論を唱える一方で、徂徠や仲基の影響により『古事記』の実証的な研究を行い、上代の日本人はと繋がっていたと主張して『古事記伝』を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。

その後「宣長没後の門人」を自称する平田篤胤は、宣長の「古道論」を神道の新たな教説である「復古神道」に発展させた。篤胤の思想は地方の農村へ広がり、平田派国学者の中には生田万のような反乱を起こすものや、尊皇攘夷志士として活動するものも現れた。こうしたことから、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}近代の国粋主義皇国史観に影響を与えた[要出典]ともいわれる。
実証による文献考証の流れ塙保己一伴信友

盲目の学者であり、水戸の『大日本史』編纂にも携わった塙保己一和学講談所を設立し、国史の講義と史料編纂に従事し、国学のもうひとつの、実証主義的な流れを発展させていく。『群書類従』は、古資料を集成し編・刊行したものである。宣長の古典の考証的研究を継承して、近世考証学派の大家となった伴信友も『比古婆衣』を著した。

篤胤によって復古神道が大成されたころも、真淵の門人であった村田春海らのように、契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派があり、ひとくちに国学といっても、その内情は複雑であった。

その後、実証主義的な国学は、明治期の小中村清矩らの手によって、近代以降の国文学の研究や国語学(山田孝雄)、さらには民俗学(新国学)の基礎となった。
対外膨張の思想

宣長は寛政2年(1796年)に『馭戒慨言』を刊行した。中野等によれば、この書名は「中国、朝鮮を西方の野蛮()とみなし、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が「馭めならす」、すなわち統御すべきものとの立場による」という[9]。内容も「日本中心主義と尊内外卑に立って」外交交渉の歴史を解説している[9]。宣長の執筆意図は「漢意の排斥」が目的であり[注 1]、実際の外交を論じたものではなかったという見方もあるが、宣長の没後に欧米による異国船の来航が始まったことで、『馭戎慨言』は「現実の外交を論じたもの」として解釈される。幕末期大国隆正は『馭戎問答』、平田延胤は『馭戎論』を著しており、こうした平田派の国学者によって「宣長の代表作」に挙げられた[11]


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