国司
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「国司」のその他の用法については「国司 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

国司(こくし、くにのつかさ、くにのみこともち[注釈 1]は、古代から中世の日本で、地方行政単位であるを支配する行政官として朝廷から任命され派遣された官吏たちを指す。

(かみ)、介(すけ)、(じょう)、(さかん)が派遣された(四等官)。さらにその下に史生(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めて扱われていた[2]

守の唐名刺史太守など。大国、上国の守は比較的に位階の高い貴族が任命され、中央では中級貴族に位置する。

任期は6年(のちに4年)だったが、実際には任期が終わらないうちに交代している者が多かった[2]。国司たちは国衙において政務に当たり、祭祀行政司法軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられた。

国司たちは、その国内の各の官吏(郡司)へ指示を行なった。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命された(詳細は古代日本の地方官制を参照)。

この他に国司の下で事務処理などの雑務を行う書生・雑掌・散事と呼ばれる下級職員がいた。原則として在地の白丁身分から取ることになっていたが、実際には旧豪族層出身が多かったと推測される[3]
沿革1920年大正9年)、樋畑雪湖が第一回国勢調査記念切手の図を制作するに際し、『日本書紀』大化元年9月の「甲申、遣使者於諸国録民元数」の記述から高橋健自とともに再現した大化年間の国司の姿[4][5])。
「国司」とはなにか

今日において「国司」は、地方(令制国)に派遣された官吏もしくはその官職を指すと定義されるのが一般的であるが、その定義については議論されたことがないとする指摘もある[6]

公式令では、の書式として日付の後に提出元の官司に所属する四等官が上位者から下位者に至るまでの位署が定められているが、実際に令制国においては作成された現存の解は「守・介・掾・目」という四等官の順序にて位署が行われており、これは中央における官司と全く同じ手続きと言える。つまり、本来の国司とは地方官個人やその官職を指すのではなく、守を長官とする官司すなわち行政機関の名称であるとする指摘が出されている。つまり、官吏個人を対象として「国司」と呼称するのは本来は誤用であるとみなすべき(守ならば、「国守」と称すべき)であるが、国司そのものが元々は中央(大王・天皇)から地方に派遣された使者の役割を常設機関として置き換えた性格をもっており、公式の場ではともかくそれ以外では早くから官司としての呼称である「国司」をそこに属する官吏に対しても用いることが行われ、平安時代には一般化してしまったと考えられている。しかし、現存する公文書の分析の限りにおいては、公文書においては少なくても9世紀までは国司は官司のみを対象にした用法だという本来の原則が守られていたと考えられている[7]
国司制度の始まり

国司制度の前史として、一説に、国司という語は出ていないが、皇極天皇元年(642年)9月条の記述に、「○○国」という単位で徴発が行われている(舒明天皇の時代では、「東の民」「西の民」という語を用いた)ことから、皇極天皇の時代にはすでに国司が使われたと考えられ、皇極天皇2年(643年)にも「国司」を用いた記述が見られるが、これらは後世の国司とは異なり、臨時派遣される官僚であったとみられる[8]

日本書紀』には、大化の改新時の改新の詔において、穂積咋東国国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。この時、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたという(「大宰府」の語はその名残だと言われている)。その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。

8世紀初頭の大宝元年(701年)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である国郡里制に編成され、地方分権的な律令制が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。律令制を根幹的に支えた班田収授制は、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。

国司は中央の官人が任命されて家族を連れて任国に赴くことが認められていた。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかった訳ではなかった[9]

国司は通常は国府に設けられた国衙の中にある国庁で政務を行っているが、郡司の業務監査や農民への勧農などの業務を果たすために責任者である守が毎年1回国内の各郡を視察する義務があった。これを部内巡行という[10]

平安時代天長3年(826年)からは親王任国の制度が始まった。桓武天皇平城天皇嵯峨天皇は多くの皇子・皇女に恵まれたため充てるべき官職が不足し、親王の官職として親王任国の国司が充てられ、親王任国の国司筆頭官である守には必ず親王が補任されるようになった。親王任国の守となった親王は太守と称し、任国へ赴任しない遥任だったため、実務上の最高位は次官の介であった。
遙任化と受領

平安時代になると、朝廷は地方統治の方法を改め、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。また本来、任命された国司(守、介、掾、目)の共同責任だった地方統治を改め、「守」(ただし親王任国では「介」)が租税納入の責任を負うこととなった(受領)。それは、律令制的な統治方法によらなくとも、一定の租税を徴収することが可能になったからである。9世紀?10世紀頃には田堵と呼ばれる富豪農民が登場し、時を同じくして、国衙(国司の役所)が支配していた公田が、名田という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを負名という)。律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すなわち土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。

一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない遥任国司が多数現れるようになった。そして国司(守、介、掾、目)の中の実際に現地赴任する最高責任者を受領と呼ぶようになった(またそれより下位の国司を任用と呼ぶようになった)。王朝国家体制への転換の中で、受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。

平安時代中期以降は開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。『枕草子』には除目の日の悲喜を描いている[注釈 2]。平安中期以降、知行国という制度ができた。これは皇族や大貴族に一国を指定して国司推薦権を与えるもので、大貴族は親族や家来を国司に任命させて当国から莫大な収益を得た。

新しく国司に任ぜられる候補としては、蔵人式部丞民部丞外記検非違使などが巡爵によって従五位に叙せられたものから選ばれる[11]ほか、成功院宮分国制などもあった。

国司の選任に当たっては、その国に住み所領を持つ者は、癒着を防止するという観点から任命を避けるという慣例があった。寛弘3年(1006年1月28日の除目において、右大臣藤原顕光が伊勢守に平維衡を推挙したが、藤原道長が「維衡はかつて伊勢国で事件を起こしたものである」ことを理由に反対している[12]。この「事件」とは、かつて維衡が伊勢において平致頼と合戦を起こしたことである[13]。なお道長は8年後の長和3年2月の除目で、摂津を地盤としていた源頼親を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている[14]


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