この項目では、江戸時代の鉄砲鍛冶師について説明しています。太陽系の小惑星については「国友一貫斎 (小惑星)」をご覧ください。
国友一貫斎国友一貫斎屋敷(長浜市国友町)国友一貫斎の望遠鏡月のスケッチ(1836年)自邸前の「星を見つめる少年」像
国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ) 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。「江戸時代のエジソン」[1]、「江戸のダ・ヴィンチ」[2]、日本のものづくりの先人[3]と評される。 近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた[4]。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇
生涯
文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)[4][5]。年寄らが幕府に訴えたため、一貫斎も江戸に呼び出された[4][5]。一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。
江戸滞在は足かけ6年となり、訴訟が解決した後も続いた[5]。江戸では国学者の平田篤胤ら多彩な専門家と交流し[5]、大名家に出入りして様々な舶来品を見る機会を得た[5]。
前老中・松平定信の依頼で、文政元年(1818年)に『大小御鉄炮張立製作』を書いた[6]。近世以前では唯一の鉄砲技術書とされる[4]。
文政元年(1818年)、医師山田大円からオランダ伝来の風砲(玩具の空気銃)を示された[4]。壊れたまま放置されていたところを、丹後峰山藩主京極高備から大円が借り受けたものだった[6]。これをもとに、一貫斎は文政2年(1819年)に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作した。その解説書として『気砲記』を著し[4]、後には20連発の早打気砲を完成させた[4]。一貫斎は気砲の制作にあたって圧縮空気の原理を理解し、空気の重量を計測した[5]。空気に重さがあることに日本で初めて気付いた人物とされる[5]。
文政3年(1820年)、尾張犬山城主、成瀬正壽の江戸屋敷で、オランダから持ち込まれたイギリス製のグレゴリー式望遠鏡を見る機会があり[1]、天保3年(1832年)ごろから反射望遠鏡を製作し始め、天保4年(1833年)に国産初の反射望遠鏡を完成させた[5]。
自作の望遠鏡で天体観測を行い[7]、月のクレーターや木星の2つの衛星などを観察し、詳細なスケッチを描き残した[5]。天保6年(1835年)から翌年にかけて太陽黒点の連続観測を行い[6]、図面を残した[7]。図面は非常に正確で、日本の天文学史上の貴重な資料とされている[7]。
人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機「阿鼻機流」を作ろうとしていたこともある[8]。文政13年(1830年)に風船(飛行船)を考案して幕府に上申した[4]。製作には至らなかったが図面が残っており[5]、現存する飛行機の設計図では国内最古とされる[1][9]。
その他、玉燈(照明器具)[9]、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)[4][5]、鋼製弩弓[4][5]、神鏡(魔鏡[注釈 1])[3][4]など数々の物を作り出した。
天保の大飢饉では、餓死寸前の村人たちを救うため、望遠鏡を各地の大名に売った[9]。
天保11年(1840年)、国友村にて死去。享年63。「技は万民のためにある」が口癖だった[9]。
昭和15年(1940年)、従五位を追贈された[11]。 一貫斎は6台ほどの反射式望遠鏡を製作したとされる[12]。そのうち4台が現存する[7][13]。
望遠鏡
上田市立博物館(1号機、天保5年)[13] - 2012年に重要文化財に指定[14]
長浜城歴史博物館(2号機、天保7年)[13][15]