国内軍_(ポーランド)
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?国内軍の軍旗 国内軍の腕章 いかり
国内軍のシンボルの一つで、「Polska Walcz?ca(戦うポーランド)」の頭文字を図案化したものである。

国内軍(こくないぐん、ポーランド語: Armia Krajowa アルミア・クラヨーヴァ、略称: AK)は、第二次世界大戦中のポーランドで活動した、ナチス・ドイツの占領軍に対する抵抗組織である。1939年に編成されたポーランド勝利奉仕団(ポーランド語版)を起源としている。1942年2月には武装闘争連合(ポーランド語版)が形成され、続く2年間ポーランドの他の地下組織を統合し、赤軍がポーランド全土を占領してドイツ軍が排除された1945年1月に解散した。

国内軍は40万以上の構成員を有するポーランド最大かつ、大戦中の世界で2番目に大きなレジスタンス組織であった(1番目はユーゴスラビアのパルチザン)。ポーランド地下国家(英語版)として知られるポーランド亡命政府指導下の文民抵抗組織と連携し、国内における武装抵抗運動を展開した。

国内軍の主な行動はドイツ本国から東部戦線に向かうドイツ側輸送機関へのサボタージュおよびドイツ軍に対するゲリラ攻撃である。1943年から1944年の「嵐」作戦(ポーランド語版)では多数のドイツ軍部隊を足止めした。

国内軍を指揮するポーランド亡命政府は、ソビエト連邦が支援するポーランド国民解放委員会(ルブリン政権)と対立する関係にあり、ソ連からは敵性組織と見なされていた。そのため、残党の一部は解散後の1950年代後半まで対ソ抵抗運動を展開し、呪われた兵士(英語版)とも呼ばれた。
目次

1 歴史

1.1 第二次世界大戦

1.2 戦後


2 組織構成と人員

3 武装と装備

4 他の組織との関係

4.1 ユダヤ人との関係

4.2 リトアニアとの関係

4.3 ソビエト連邦との関係


5 関連項目

6 脚注

7 参考文献

8 関連書籍

9 外部リンク

歴史
第二次世界大戦 カラシェヴィチ=トカジェフスキ

国内軍の母体は、ドイツのポーランド侵攻末期の1939年9月27日にミハウ・カラシェヴィチ=トカジェフスキ(ポーランド語版)中将が設置したポーランド勝利奉仕団(ポーランド語版)(S?u?ba Zwyci?stwu Polski)である。7週間後の1939年11月17日には亡命政府首相兼軍最高司令官ヴワディスワフ・シコルスキ中将の命令によって武装闘争連合(ポーランド語版)(Zwi?zek Walki Zbrojnej)となり、さらに2年後の1942年2月14日に国内軍(Armia Krajowa)となった。

ポーランド国内には他にもいくつかの抵抗組織が存在したが、その多くが国内軍に合流した。合流した組織には国民軍事組織(ポーランド語版)(国民党系、1942年秋と1943年夏に部分的に)、国民同盟(ポーランド語版)(戦前の与党のサナツィア系、1943年秋)、国民軍(ポーランド語版)(国民党系の分派、1944年夏に部分的)、農民大隊(ポーランド語版)(農民党系、部分的)、人民防衛隊(ポーランド語版)(社会党系、1943年部分的)などがある。一方、国内軍に合流しなかった組織としては、共産主義者が組織した人民軍が知られる。

ステファン・ロヴェツキ(ポーランド語版)少将(暗号名 Grot(矢じり))が最初の国内軍の指揮官となった。ロヴェツキが1943年に逮捕されると、タデウシュ・コモロフスキ少将(暗号名: Bor(森))が後を継ぎ、さらにコモロフスキが1944年9月に逮捕された後、レオポルト・オクリツキ(ポーランド語版)准将(暗号名 Nied?wiadek(小熊))が終戦まで組織を指揮した。

ロヴェツキ

コモロフスキ

オクリツキ

国内軍はその活動期間を通じて、数多くのドイツ軍および警察部隊に対する襲撃、鉄道輸送網の破壊などのサボタージュ、および各種諜報活動を行った。また、ドイツ側がポーランド市民に行った暴政への報復として、ゲシュタポ高官の暗殺計画なども指揮した。

国内軍による諜報活動は、連合国に様々な情報をもたらした。例えば、V-1V-2爆弾[1]、ドイツの強制収容所[2]についての情報などである。特に重要な国内軍による諜報作戦としては、ビッグ・ベン計画(モストIII作戦(英語版)もしくはワイルドホルンIII作戦[3]とも )が知られる。この作戦ではイタリアのブリンディジを離陸したイギリス空軍の双発輸送機ダコタがポーランド国内のドイツ軍の放棄された飛行場に着陸し、航空技術者アントニ・コツィアン(英語版)らが調達した情報を回収した。この情報には、ペーネミュンデ陸軍兵器実験場から回収されたV-2テストロケットの残骸、特別報告書1/R. の.242ページ、様々なパーツ、図面などが含まれた[4] ワルシャワ蜂起における国内軍の兵士

1943年、ポーランド総督府とドイツに併合された地域の国境警備を担っている部隊への攻撃を目的とした「ベルト」作戦(ポーランド語版)が発動される。1944年の「嵐」作戦(ポーランド語版)は独ソ両軍が奪い合っていた地域を確保し、ソ連軍到達前にポーランド人による支配を確立することを目的とした大規模な蜂起計画であった。この最中に起こった戦いのうち、最も有名なものがワルシャワ蜂起である。ワルシャワ蜂起は1944年8月1日から始まり、国内軍は市内各地の拠点を確保した上、モルデハイ・アニェレヴィチ通り(ポーランド語版)にあったゲンシュフカ監獄(ポーランド語版)より数百人もの収容者を解放した。その後、国内軍は63日間抵抗を続けたものの、10月2日までに蜂起は鎮圧された。同様の蜂起にはヴィリニュスにおける「夜明けの門」作戦(ポーランド語版)がある。

ポーランドの地下組織による枢軸国の犠牲者は、約15万人で、そのほとんどが国内軍によるものとされる[5]。ただし、抵抗勢力による推定犠牲者は大きな誤差がある[6]。国内軍は東部戦線とドイツ本国を結ぶドイツ軍の兵站線への攻撃を主な活動とした。国内軍の活動により、東部戦線へ送られるドイツ軍の輸送物資うち約1/8が破壊されるか大きく遅延した[7]。国内軍は、特に1943年と1944年に大規模な戦闘をおこない、いくつかのドイツ軍の師団[1](人数にして約93万人[8])を釘付けにした。
戦後

1945年1月19日ソビエト連邦との武力衝突と内戦を避ける為に国内軍の公的な解散が宣言される。しかし、実際には多くの部隊はその後も抵抗運動を継続した。

ソ連およびソ連に支援されたポーランドのポーランド国民解放委員会(ルブリン政権)は、ロンドンのポーランド亡命政府と対立する立場にあり、これに指導される国内軍等の地下組織も排除するべきと考えていた。


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