国体
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この項目では、日本における政治思想用語について説明しています。

「国体」と略称される日本のスポーツ大会については「国民体育大会」をご覧ください。

世界各国の国家体制一般については「政体」をご覧ください。

国対」とは異なります。

国体(こくたい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:國體)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと[1]。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系天皇日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという[2]

国体論は、幕末水戸学によって打ち立てられ[3]明治憲法教育勅語により定式化された[4]。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された[3]
概要

もともと国体という語は国家の形態や体面を意味していたが、幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を打ち立てた[3]。水戸学の構想は日本全国に広まり、国体論が一つの思想として独立した。国体論は、明治維新の後の過渡期を経て、帝国憲法教育勅語により定式化された[4]
国体の語義

「国体」は旧字体で「國體」と書き、「國」という字は一政体の下に属する土地人民などの意、「體」という字は、からだ、てあし、もちまえ、すがた、かたち、かた、きまり、などの意である[5]

国体という語は、古くから漢籍に見え、『管子』君子篇において国家を組織する骨子という意味で用いられ、『春秋穀梁伝』において国を支える器という意味で用いられたが、これらは本項でいう国体とは関係がない[6]。その後、漢書に国体の語が見え、これは国の性情、または国の体面という意味であり、本項でいう国体にやや近いといえる。このほか後漢書晋書旧唐書宋史続資治通鑑綱目などに表れる用例も似たような意味である[7]

日本において国体という語が多用されるのは近世になってからであるが、古典籍においてもその語は散見される。ただしその用例と意味は近代のものと異なる[8]。国体の語が日本の古典に現れるのは、延喜式所載の出雲国造神賀詞に「出雲臣等が遠祖天穂比命を国体見に遣時に」とあるのが初見であるといわれる[9]。国体は古訓でこれをクニカタと訓じた。また日本書紀の斉明天皇紀に「国体勢」という語句が見え、これをクニノアリカタと訓じた。諸書を対照すると、国体も国体勢も元は地形の意味であったのが転じて国状の意味に用いられたようである[10]。次いで『大鏡異本陰書』や『古事談』に国体の語が見える。これは万葉集にある国柄の語と同義であって、ともにクニガラと訓じ、国風や国姿などの意味に通じる[11]

日本の近世には国体の語がしばしば文書に表れる。そのうち世に知られたもので最古の例は、元禄2年(1689)序、正徳6年(1717)刊の栗山潜鋒『保建大記』である[12]。この間の元禄11年(1698)の森尚謙『儼塾集』に邦体という語が見える。その後、国体の意義を論じたものに、谷秦山新井白石荻生徂徠松宮観山、高山健貞、賀茂真淵山岡浚明林子平中井竹山村田春海平山行蔵本居宣長平田篤胤会沢正志斎青山延于佐藤信淵鶴峯戊申江川英龍大槻磐渓安積艮斎藤田東湖などがいる[13]

1853年(嘉永6年)黒船来航以降、国体という語は内治外交上重要なものとして用いられ、詔勅・宣命・その他公文書にも多く見られるようになる[13]。たとえば黒船来航の年の7月、前水戸藩徳川斉昭が幕府に建言した意見十箇条には、夷賊を退治しないばかりか万が一にもその要求を聞き入れるようでは「御国体に相済み申しまじく」(国体にあいすみません)と記し、同月伊達慶邦が幕府に提出した書に「本朝は万国に卓絶、神代の昔より皇統連綿」、「和漢古今、稀なる御治盛の御国体に御座候」とある。同年8月、孝明天皇が石清水放生会で攘夷を祈る宣命に「四海いよいよ静謐に、国体いよいよ安穏に、護り幸い給えと恐み恐みも申し給わくと申す」と宣い、そのほか同9月の神宮例幣使、安政元年(1854)11月の賀茂臨時祭、安政5年(1858)4月の賀茂祭、6月の伊勢公卿勅使発遣、および石清水八幡宮・賀茂社臨時奉幣などの宣命に国体の語を用いた。文久2年(1862)5月に幕府へ下した勅で「国政は旧により大概は関東〔幕府〕に委ねる。外夷の事の如きに至りては則ち我が国の一大重事なり。その国体に係るは、みな朕に問うて後に議を定めよ」と命じ、元治元年(1864)、将軍徳川家茂へ下した宸翰には「嘉永六年癸丑、洋夷猖獗来港し、国体あやうきこと云うべからず」とある。以上、幕末の公文書に表れた国体の語の例である[14]

明治維新後、国体の語が公文書にあらわることがますます多くなり、とくに詔勅に国体の語をしばしば用いる。たとえば慶応4年(1868)5月、奥羽士民を告諭するためのに「政権一途、人心一定するにあらざれば何を以て国体を持し紀綱を振わんや」、「その間、かならず大義を明らかにし国体を弁ずる者あらん」とある。この詔では国体の文字の右にコクタイ、左にミクニブリという振り仮名が付されている[15]。次いで明治2年(1869)2月に薩長両藩主を徴する勅に「およそ国体を正し、強暴に備え、公義を立て、民安を慮り」とあり、同年9月の刑律改撰の勅に「我が大八洲の国体を創立する、邃古は措いて論ぜず、神武以降二千余年、寛恕の政、もって下を率い、忠厚の俗、もって上を奉ず」とあり、同月に服制更改の勅諭に「風俗なるもの移換、もって時の宜しきに随い、国体なるもの不抜、その勢を制す」「朕、いま断然その服制を更め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す」とあり、明治15年(1882年)1月の軍人勅諭に「かつは我が国体にもとり、かつは我が祖宗の御制にそむき奉り」云々とある[16]

以上のように、国体のという語は近世以降頻繁に用いられたが、その意味は必ずしも一定したものではなく、多くは国風、国情、国の体面、国の名分、国の基礎、国の特性などの意味に用いられた[17]

帝国学士院『帝室制度史』第1巻国体総説によれば、1938年当時用いられた国体という語の意義は教育勅語を基礎としなければならず、この意義における国体は、日本に万世一系の天皇が君臨し、皇統連綿・天壌無窮に君徳が四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味するという[2]
古代中世の国体観念

国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が神国であること、皇統が連続して一系であること等である[18]

古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において祭政一致により国を治めていたことも神国思想より起る。そのほか日本書紀神功皇后三韓征伐の条で、攻め寄せる日本兵を見た新羅王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また大化の改新にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ神祇官を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである[19]


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