国会議事堂
Reichstagsgebaude
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情報
用途ドイツ連邦議会議事堂
旧用途ドイツ帝国議会議事堂、ドイツ国国会議事堂
設計者パウル・ヴァロット
国会議事堂(こっかいぎじどう、 Reichstagsgebaude[ヘルプ/ファイル])は、ドイツの首都ベルリン・ミッテ区にある議事堂。
1894年から帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じて下院の議事堂として機能したが、1933年に不審火によって炎上した。1999年に修復され、現在はドイツ連邦議会の議場が置かれている。 Reichstagsgebaudeは、神聖ローマ帝国皇帝の臨席する大会議の名称として使われ始め、国制が変わってもドイツ民族に連綿として受け継がれた Reichstag (ライヒスターク、国会)の歴史的意識と、建物を意味する Gebaude の二つの単語から成る複合名詞
名称
東西ドイツ統一の後、旧ドイツ国会議事堂は全面的に修復され、1999年にライン河畔のボンにあった連邦議会がこの建物に移転した。この際、建物の名称を Reichstagsgebaude (国会議事堂)から Bundestagsgebaude (連邦議会議事堂)と変更する動きがあったが、Reichstagsgebaude am Sitz des Deutschen Bundestags (訳語として無理があるが 「ドイツ連邦議会の置かれた国会議事堂」)という表現を作ることでReichstagsgebaudeという歴史的名称を残した。
沿革
帝政ドイツ時代国会議事堂 1900年頃
1871年に統一ドイツが誕生して以来、国会(ライヒスターク)は既存の建物を転々としながら開催されていた。新しい国会議事堂の必要性が叫ばれ、その場所としてベルリン市街地の西にある国王広場(ケーニヒスプラッツ、現在の共和国広場)の東側が選定された[1]。建築設計競技が行われ、ルートヴィヒ・ボーンステット(Ludwig Bohnstedt)の案が優勝したが、予定地にあったポーランド出身のプロイセン外交官・ラチンスキ伯爵の邸宅の買収が進まないうえに、巨額の費用を要する建設には当時の皇帝ヴィルヘルム1世や首相オットー・フォン・ビスマルクらが賛成せず、建設計画は宙に浮いた。
1881年にようやく議会は予定地の買収を決めたが、10年前のボーンステット案に替えて新しい建築案を選定する機運が高まった。1882年、改めて建築設計競技が行われ、189件の応募案の中からパウル・ヴァロット(de:Paul Wallot)の案が選ばれた。1884年、最初の礎石を皇帝が置き建設が始まり、10年の歳月をかけて1894年に完成した。当時、建物頂上の鉄とガラスのドームは最先端技術の粋といわれた。
ヴァイマル共和政およびナチス・ドイツ時代英米軍の空襲とベルリン攻防戦で破壊された国会議事堂(1945年6月3日撮影)ライヒスタークの赤旗
1918年、ドイツ革命の際、この建物のバルコニーからドイツ社会民主党のフィリップ・シャイデマンによってドイツ共和国宣言がなされた。ヴァイマル共和政期も国の正式名称は Deutsches Reich (ドイツ国)であり、議会の名称も Reichstag(国会) のままであったため、この建物は Reichstagsgebaude (国会議事堂)と呼ばれ続けた。
アドルフ・ヒトラーが1933年1月30日に首相となり、翌月27日に国会議事堂は謎の出火で炎上した。この国会議事堂放火事件をきっかけに、ヒトラーは老齢の大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクに「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」を発布させ、ヴァイマル憲法によって認められた基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止させ、共産党や社会民主党に対して激しい妨害を加えた。3月5日の国会議員選挙の結果、ナチ党は43.9%の得票率により、議員数は288名を数えるというヴァイマル共和政始まって以来の大勢力となったが、単独過半数には及ばなかった。しかし連立を組むドイツ国家人民党を加えれば過半数となる上、当選した共産党の議席を事実上認めない措置によって、国会の権力を握ることに成功した。
国会議事堂が全焼したために国会開会式は3月21日にポツダムのフリードリヒ大王の墓所のある衛戍教会にヒンデンブルク大統領の臨席の下に厳かに行われた。一日おいて3月23日、国王広場を挟んで議事堂の向かい側にあったクロル・オペラ劇場を臨時国会議事堂にあて国会審議が始まり、全権委任法が国家人民党、中央党の協力の下に三分の二以上の賛成票を得て承認された。この後、ナチ党は政党を次々と解体して同年7月14日には一党独裁体制を確立し、国会は政府の行動に賛成するのみの存在になった。
ナチス・ドイツ時代、国会はほとんど開かれず、全焼した国会議事堂の修復はまったく行われなかった。臨時国会議事堂にあてられたクロル・オペラ劇場も第二次大戦を生き延びることは出来ず、空襲で全壊した。
第二次世界大戦中、半ば崩れた国会議事堂は1943年のベルリン大空襲の被害を受け、1945年のベルリン市街戦では、武装親衛隊の強力な抵抗拠点の一つとなっていたため赤軍の主要な攻撃目標とされ、さらに徹底的に破壊された。国会議事堂の屋根にソ連兵がソ連国旗を掲げる写真(ライヒスタークの赤旗)は、ベルリン陥落を象徴するよく知られた一枚である(天候の関係から制圧の翌々日に撮影したものだという説もある[3])。