国人衆
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国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと[1]

六国史日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ[1]、越前国人、大和国人、河内国人などが見える[2][3]

また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制[1][4]、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い[1]
目次

1 概要

2 各地の主な国人領主

2.1 蝦夷地

2.2 奥羽地方

2.3 関東地方

2.4 北陸地方

2.5 中部地方

2.6 東海地方

2.7 畿内近国

2.8 山陰地方

2.9 山陽地方

2.10 四国地方

2.11 九州地方


3 脚注

4 参考資料

5 関連項目

6 外部リンク

概要

国人とは、日本後紀においてはその国衙領の国民ないし住民を指し、中世史料においては在国の有力名主を指す一般的呼称として用いられた史料上の言葉ないし用語である[1]

平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園公領の管理者となった荘官郡司郷司保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く武士を指す資料用語である。幕府守護荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。

「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。

この層の武士たちが重要な存在となったのは鎌倉幕府滅亡の前後から南北朝時代にかけてで、特に観応の擾乱の頃からである。南北朝時代には、諸国の政治・軍事は国元に腰を据えている領主たちによって動かされた。一方で国人たちは、中央政界の動向にも敏感に対応していった。国人は室町幕府守護大名・荘園領主の行動を左右する実力を蓄積する在地勢力にまでに成長したのである。この背景には、南北朝の動乱期に目覚めた支配下の農民層への支配力の強化、室町幕府や守護大名の支配や干渉への対抗、馬借問丸といった運送業の発達に伴う流通経済・地域経済の伸張がある。

領地の経営では、在国あるいは在地領主としての国人領主は、各所に散在して地方を支配するという地頭領主型の支配形態から一歩進み、本領を中心に集中性を持つ領域支配をするようになった。国人層は荘園領主と地下人の対立に介入し、代官職や所務職などを請け負うこともあった。国人領主の領域支配は、それ以前の在地領主と比べて土地と農民の支配がより強固である。検地や国人間に結ばれた人返しなどがこの例である。

国人は、守護や荘園領主など領域外からの支配者に対しては、その被官となって半従属的支配を受けることもあれば、領内の百姓身分の上層部である地侍を被官化することによって得た強力な軍事力や他の国人との連携を背景に反抗することもあった。南北朝時代から室町時代にかけてしばしば起きた国一揆(国人一揆=国人領主連合)は、形態は様々だが国人領主同士の結合と見ることができる。

戦国時代になると、守護大名の支配が衰えた地域では、国人は城持ちの独立領主として存在し、やがて大部分の国人は戦国大名の家臣団に組み込まれていった。一方、大名に比肩する勢力を持つ国人の中には、毛利氏長宗我部氏龍造寺氏田村氏のように戦国大名となるものも現れた。
各地の主な国人領主
蝦夷地

蝦夷国蠣崎氏(松前氏)

奥羽地方

陸奥国南部氏大浦氏八戸氏大光寺氏斯波氏和賀氏稗貫氏九戸氏久慈氏閉伊氏浄法寺氏工藤氏阿曽沼氏、江刺氏、薄衣氏、岩淵氏、葛西氏大崎氏黒川氏留守氏国分氏、秋保氏、砂金氏、氏家氏、高清水氏、長江氏、朴沢氏、馬籠氏、本吉氏、亘理氏白石氏相馬氏岩城氏結城氏田村氏石川氏標葉氏上遠野氏、飯野氏、伊達氏蘆名氏猪苗代氏、懸田氏、佐藤氏鬼庭氏(茂庭氏)畠山氏石橋氏、大内氏、長沼氏二階堂氏


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