国井喜太郎
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国井 喜太郎(くにい きたろう 1883年4月23日 - 1967年2月15日)は、日本の工芸家・デザイナー、教育者、商工省工芸指導所初代所長。ファイル:国井喜太郎.jpg国井喜太郎 昭和39年3月25日 撮影 臼井正夫

外貨獲得と併せて地方産業を興す方途として「産業工芸」の重要性に着目し、そのために調査・指導・研究、全国的な組織造り・広報活動を推進して、産業デザイン隆盛の基礎を作り、かつデザイン界に多くの人材を送り出す役目を果たした。その功績を記念して、プロダクトデザイン及び工芸に関して優れた業績を挙げた人々を顕彰するために(一財)工芸財団により「国井喜太郎産業工芸賞」が制定された。(1973年第1回から2001年第28回まで)
経歴

1883年4月23日 - 大野與七の次男として射水郡高岡町新横町(現在の富山県高岡市大手町)又は同郡下関村(現在の高岡市東下関))に生まれる。

12歳の時、下関村の自宅の向いが富山県工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)の初代校長・納富介次郎の官舎だったことから、工芸の道に入る。[1]

1902年4月1日 富山県工芸学校 漆工科描金部本科卒業。

1902年10月18日 富山県工芸学校助教諭心得

1904年?1905年 補充招集により日露戦争に従軍。肩に貫通銃創を受けて入院、帰郷。

1905年5月5日 国井俊彰の長女・清(きよし)と結婚、国井姓となる。

1907年7月8日 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科専科卒業。

1907年9月18日 富山県工芸学校教諭

1913年1月20日 上京し、村松貴金属店(日本橋)意匠部主任。

1914年?1916年 芝琴平町に「国井図案所」を開設。室内装飾・家具・七宝焼・西陣織・洋傘・欄間などのデザインを手掛ける。

1917年3月26日 名古屋市工芸学校(現在の名古屋市立工芸高等学校)教頭

1919年2月1日 服部時計店図案部長

1926年6月30日 富山県工芸学校校長

1928年3月31日 商工省工芸指導所(後の通産省 工業技術院 産業工芸試験所、製品科学研究所)の設置に伴い初代所長となる。

1943年2月18日 社団法人大日本工芸会理事長

1943年6月10日 社団法人美術及工芸統制協会理事

1945年4月3日 日本美術及工芸株式会社取締役(?1947年10月7日

1948年4月1日 財団法人 工芸学会 付属工芸研究所所長

1967年2月15日 東京都杉並区上高井戸(現在の久我山二丁目)の自宅にて逝去。

栄典・顕彰

1939年2月14日 叙 勲四等瑞宝章

1955年8月1日 第1回毎日産業デザイン賞(現在の毎日デザイン賞)特別賞

1955年9月11日 第1回竹田工芸賞[2](工芸学会)

1957年3月28日 漆工功労者として高松宮殿下より木杯を賜う。

外部リンク

一般財団法人 工芸財団


参考文献

国井喜太郎先生記念出版編集委員会『デザインの先覚者 国井喜太郎』1969年

樽谷雅好 『プロダクトデザインの開拓者 国井喜太郎』 越中人譚 21号 チューリップテレビ 2000年

脚注^ 「工芸の神、納富先生」日本漆工 No.160 1964年5月
^ 工芸学会名誉会長 竹田恒徳にちなむ。『工芸文化通信』第10号 1955年8月


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