団結小屋
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沖縄県伊江島にある団結道場。
米軍の土地収用反対闘争の拠点であった。

団結小屋(だんけつごや)とは、労働争議社会運動において現地に設けられた半常設の拠点。
概要埼玉新都市交通伊奈線の反対運動で中核派が立て籠もった団結小屋跡。地権者宅上空の空中権を収用した。

労働争議社会運動が起きた場合、支援者たちはテントを現地に設営して、その闘争を支えた。しかし闘争が長期化した場合、テントのような仮設拠点ではなく、半常設の闘争拠点が求められた。これが「団結小屋」である。

団結小屋は、現地に程近い民家を借りたり、現地に直接プレハブ小屋を建てることによって設けられる。「○○現地闘争本部」といった名称が多い。

団結小屋は、その闘争の「司令部」という役割の他に、活動家が常時寝泊りが出来る宿泊施設という機能も兼ね備えている。また部外者に、この闘争の意義を伝えるプロパガンダの場としても使われることもある。

団結小屋が用地買収の対象の土地である場合、一坪共有地として対抗することもある。その場合、買収のために、交渉・行政代執行などを行う必要がある。土地を取得しても団結小屋が残っている場合は、さらに裁判などで明け渡しや建物撤去の強制執行を行う必要がある。
成田空港問題における団結小屋.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}天神峰現地闘争本部横堀現地闘争本部横堀鉄塔岩山鉄塔野戦病院木の根ペンション天浪団結小屋駒井野団結小屋農民放送塔 成田国際空港周辺の団結小屋

成田空港問題でも、三里塚闘争を支援する新左翼成田空港予定地やその近くに団結小屋を数多く設営した。

これらの団結小屋の特徴として、飛行機の離着陸を妨害するために、外観を鉄塔状にしたものが多く、あたかも城郭における櫓のような建築物であった。中には高さ20mの鉄塔を装備して4層フロアを持つ構造物もあった。公民館や空き家を再利用したり、古材を集めて建築した建物もあった[1]

1971年昭和46年)の第一次代執行および第二次代執行でも設営された団結小屋を排除した。

開港直前の年である1977年(昭和52年)には20近い新左翼党派が30か所あまりの常駐拠点を構え、約110人の常駐活動家を擁した[2]

1978年(昭和53年)、日本国政府はこれらの団結小屋を規制するため、新たに新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法、現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)を成立させた。

成田新法第3条では、規制すべき団結小屋を次のように定義している。

多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用

暴力主義的破壊活動等に使用され、又は使用されるおそれがあると認められる爆発物、火炎びん等の物の製造又は保管の場所の用

新東京国際空港(2004年4月1日以降は成田国際空港)又はその周辺における航空機の航行に対する暴力主義的破壊活動者による妨害の用

日本国政府は成田新法に基づき、多くの団結小屋を閉鎖に追い込んでいった。撤去活動に際しては新左翼は2000本の火炎瓶を準備して抵抗することもあり、日本国政府は警察機動隊や放水車、重機を投入して対応した。

空港敷地内で未買収地の団結小屋は、2019年(平成30年)現在、空港用地内に2棟、保安用地に2棟が残存する[3]

なお、三里塚芝山連合空港反対同盟(以下、反対同盟)が呼ぶ、同じく団結の名の付く「団結道路」(団結街道)は成田市道である。
横堀要塞

芝山町香山新田字横山に存在した。1977年12月に建設がはじめられた。土地は成田空港問題を理由に自殺した男性の父親の畑を一反、反対同盟が借りて建設した。地下1階地上3階建てで、浴槽・トイレ・ベッドを完備し、長期戦に耐える構造とした[4]

1978年2月6日、航空法49条違反として、機動隊が「横堀要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する(第一次「横堀要塞」事件)。3月25日、反対同盟が再度「横堀要塞鉄塔」を構築。3月28日、航空法違反として、「横堀要塞鉄塔」が撤去される(第二次「横堀要塞」事件)。3月26日成田空港管制塔占拠事件はこの撤去の為に警察の空港内警備が手薄になった隙をついて行われた。

1979年2月、「横堀要塞」に対して成田新法3条1項1号に基づく工作物使用禁止命令が出され、以降毎年更新され出された。その後、使用禁止命令の取消と損害賠償を求めた裁判(成田新法事件)を起こしている。

2002年11月、土地所有者の元反対派農民が、土地を新東京国際空港公団に売却したのに伴い、自主的に撤去した。
北原派系の団結小屋
天神峰現地闘争本部成田新法で使用禁止処分となった天神峰現地闘争本部

反対同盟によって成田国際空港B滑走路予定地西側の天神峰(反対同盟副委員長所有地)に1966年昭和41年)12月に建てられた三里塚闘争における最初の団結小屋[5]。場所は千葉県成田市天神峰字南台42-3、敷地面積は約113平方メートルであった。

もともと反対同盟員の個人宅で集会を行っていたが、闘争が本格化し始め、本部を建設することになった。建設当初は木造平屋建てであった。後に増築され、鉄筋モルタル3階建てとなった。

1989年(平成元年)に成田新法に基づいて使用禁止となり、鉄条網で封鎖されたうえ、警察によって厳重に警備された。2003年(平成15年)に地権者からの買収を完了した成田国際空港株式会社(NAA)が、翌2004年(平成16年)に反対同盟北原派を相手取って建物の撤去と敷地明け渡しを求めて提訴した[6]

2002年(平成14年)にB滑走路は暫定滑走路として供用を開始されたが、平行誘導路の一部がこの建物を避けるため大きく滑走路側に『へ』の字に湾曲し、運用上の制約となっていた。供用間もない2002年12月1日には、この箇所で航空機同士の接触事故が発生している。

2010年(平成22年)2月25日千葉地方裁判所は反対派が土地使用の根拠とした『地上権』は認められないとし、NAAに建物撤去と敷地明け渡しを命じる民事訴訟判決が下った[7]。なお、『団結街道』と呼ばれていた団結小屋に続く市道も、B滑走路西側誘導路の新設・線形改良によって成田空港の用地に取り込まれる為、廃道となった[8]

2011年(平成23年)5月20日に、東京高等裁判所は反対派の控訴を棄却し、建物撤去と土地明け渡しの仮執行宣言を付す判決を出した[9]8月6日早朝より仮執行によって強制撤去が行われた[10]

撤去後、湾曲箇所の線形改良工事が施され、誘導路上での待機がなくなり、運用上の制約がほぼ解消された。ただし、東峰地区に反対派の耕作地があるため、平行誘導路の湾曲部が残されている。
木の根育苗ハウス

中核派の拠点であったが、1990年3月19日に除去された[11]
三里塚闘争会館

中核派の拠点であったが、1990年8月22日に除去された[11]
大清水団結小屋

もともと日本社会党の現地闘争本部だったが、後に革労協が拠点として使用した[12]

1990年10月15日、新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法、以下「成田新法」)に基づく強制撤去作業が行われ、団結小屋にたてこもる活動家2人が作業を行う新東京国際空港公団職員や警備の機動隊員に石などを投げるなどして抵抗したが、機動隊員に逮捕されている[13]


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