.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}團(だん) 琢磨(たくま)
團 琢磨
生誕 (1858-09-07) 1858年9月7日
筑前国早良郡福岡荒戸町
死没 (1932-03-05) 1932年3月5日(73歳没)
日本・東京府東京市日本橋区日本橋
墓地文京区の護国寺
国籍 日本
別名神屋駒吉(幼名)[1]
教育マサチューセッツ工科大学
配偶者團芳子
子供團伊能、團勝磨
親父:神屋宅之丞
團 琢磨(だん たくま、1858年9月7日(安政5年8月1日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者・実業家。爵位は男爵。マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。
人物・来歴団琢磨
安政5年(1858年)8月1日、筑前国福岡荒戸町(現在の福岡県福岡市中央区荒戸)で、福岡藩士馬廻役神屋宅之丞の四男として生まれる。幼名は駒吉。神屋家は宗像大宮司の分家で、後年諏訪と改姓した[1]。12歳の時、藩の勘定奉行 團尚静の養子となり[2]、藩校修猷館に学ぶ。明治4年(1871年)、金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行、アメリカ合衆国へ留学する。
1878年(明治11年)、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し[3] 帰国する[2]。一緒に渡米した金子はハーバード大学へ進むが、その後も二人の交友は続き、1882年に金子の妹芳子と結婚してその義弟となっている。帰国後、アメリカで習得した技術を活かそうとするも、当時の日本は鉱山は未熟で力量を発揮できる場は無く、大阪専門学校(旧制第三高等学校の前身)で英語を教え始め[4]同校で助教授 、次いで東京大学理学部助教授となり、工学・天文学などを教える。
1884年(明治17年)に工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。三池の工業課長兼勝立坑長として採炭技術の習得のために渡欧し[2]、1888年(明治21年)に三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任する。三大工事といわれる三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、また渡欧時に大型ポンプ技術を習得しており、英国のデーヴィポンプを周囲の反対を押し切る形で採用し[5]、水没した勝立坑の排水問題を解決した[5]。1893年(明治26年)、三井鉱山合資会社専務理事となる。1895年、三池から東京へ転居し、妻の実家の麹町、赤坂区丹後町で暮らしたのち、原宿のベルギー名誉領事を務めていたドイツ人商人モズレ(Alexander Georg Mosle)の旧宅に落ち着いた[6]。1899年(明治32年)、工学博士号を受ける。
1909年(明治42年)、三井鉱山会長となる。この頃、團の手腕により三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜いて三井物産と肩を並べるようになり、「三井のドル箱」と言われた三池が三井財閥形成の原動力となった。