団塊世代
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この項目では、日本の第一次ベビーブーマーについて説明しています。堺屋太一の小説については「団塊の世代 (小説)」をご覧ください。
日本の人口ピラミッド(世代を注記)

団塊の世代(だんかいのせだい)とは、日本において第一次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代を指す[1]焼け跡世代の次の世代に当たり、第二次世界大戦直後の1947年昭和22年)?1949年(昭和24年)[2]に生まれ、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことであり、大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期[3]に相当する。第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。

日本経済においては第二次世界大戦後の高度経済成長バブル景気を経験している。この用語は通商産業省の官僚であった堺屋太一による、オイルショック後の日本経済がこの世代によりどのように変わっていくかを描いた未来予測小説の題名[2]団塊の世代』に由来している[注釈 1]

厚生労働省は、白書において「団塊の世代」ではなく、「団塊世代(1947年(昭和22年)?1949年(昭和24年)生まれ)」としている[4][5][注釈 2]

この3年間の年間出生数は260万人を超えている。1947年(昭和22年)生まれは267万8792人、1948年(昭和23年)生まれは268万1624人、1949年(昭和24年)生まれは269万6638人であり、3年間の合計出生数は約806万人にのぼる(厚生労働省の統計[6])。また1949年は日本史上最多の出生数で、当時の世界では中国(1900万人)、インド(約1500万人)、アメリカ(364万人)、ロシア(308万人)に次ぐ世界第五位の出生数であった。
概説日本の合計特殊出生率(TFR)と出生数(1000人単位)の推移。

団塊世代が生まれる前は戦中、戦後直後であり、出産を先送りする傾向にあった[7]その反動だけでなく、第二次世界大戦の終結に伴って大正世代の若い男性が復員し、1940年代後半に婚姻をする男性が増加した。明治末期・大正・昭和一桁前半生まれ(1910年代1920年代生まれ)の若い男女の婚姻急増に伴う出生人口の大幅な増加が発生し[8]、第1次ベビーブームが発生した。

1948年(昭和23年)までは、一部の例外(強姦姦通)を除き、一般的に産婦人科での避妊中絶不妊手術などの行為は、刑法堕胎罪となり禁止されていた。1948年(昭和23年)に優生保護法によって限定的に容認して、さらに翌年の1949年(昭和24年)に同法は改正されて、世界で初めて「経済的理由」での中絶も容認することになったため、出生率の増大に歯止めがかかり、1950年(昭和25年)以降は出生率が急速に低下していった。さらに戦後、結核など伝染病の予防法・治療法が確立されたことで青少年期における死亡リスクが低下し多産の必要性がなくなったことも、1950年代以降に出生率が低下した要因の一つであった。団塊の世代の母親までは、産婆による出産が主流であったが、昭和30年代には産婦人科医療による出産が主流となった[9]

このため日本においては、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)の3年間に生まれた人口が突出することとなった[10]。2014年10月時点で、コーホート別の人口が200万人を超えているのは、団塊の世代の65-67歳とその直後の64歳、第2次ベビーブーム世代である41歳のみである[11]

作家の堺屋太一が通商産業省鉱山石炭局在籍時の1976年(昭和51年)に発表した小説『団塊の世代』の中で用いたことから、「団塊の世代」という用語とともに、団塊の世代が日本社会に及ぼす大きな影響が一般にも認識された。アメリカ合衆国でも同様の現象が見られており、こちらは「ベビーブーマー」と呼ばれている。

連合国軍占領下の日本で誕生し、実の父親が戦死して母子家庭となった例や、本土空襲などの戦災体験がない世代である。また、昭和40年代にヒット曲となった「戦争を知らない子供たち」に象徴される「戦争を知らない世代」で「初の戦後(第二次世界大戦後)生まれ」である。
前後の世代
プレ団塊の世代

団塊の世代よりも数年前に生まれた世代を「プレ団塊の世代」と呼ぶ例がある[12][13][14]

なお、1946年(昭和21年)生まれについては、第二次世界大戦後であるがベビーブーム前であるため、団塊の世代に含める例と、焼け跡世代に含める例がある。
ポスト団塊の世代

しらけ世代」、および「断層の世代」を参照のこと

1950年(昭和25年)?1952年(昭和27年)生まれについては、ベビーブーム後ではあるものの年間出生数がまだ200万人を超えていたことからポスト団塊世代と呼ばれる。
団塊の世代の成長過程
誕生

第二次世界大戦後の戦後混乱期に生まれた世代で、親が1910年代・1920年代生まれであることが多い。
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団塊の世代はその膨大な人口のため、幼い頃から学校は1学年2桁のクラス数であり、50?60人学級で教室がすし詰め状態であってもなお教室不足を招くほどであった。また、その好むと好まざるにかかわらず、学校を主な舞台として競争を繰り広げた。日本で初めてのゆとり教育を受けた、「ゆとり世代」と言われることもある[15]

大学進学率は15%?20%程度と低く[16]、大半の高校卒業生は就職した。高校にさえ進学せず、中学卒業後すぐに就職する者も多かった。団塊の世代の大学受験事情について、経済的に貧しい時代で、裕福な家庭以外は地元の国公立大学進学を望む傾向が強く、国公立大学の競争率が高かった。昼間は労働に従事し、夜間に大学で学ぶという勤労学生も多かった。また女性の場合は、学力が高く経済的に余裕があっても「女に学問はいらない」という考え方が残っていた。
青年期

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地方農村や旧産炭地(ちょうどその頃エネルギー革命で多くの炭鉱が閉山した)の中学校・高等学校卒の若者は、高度経済成長期で働き口が豊富だった東京大阪などの大都市へ集団就職した。彼らは「金の卵」と呼ばれ、工場や商店などといった中小零細企業で大勢雇われ日本経済の底を支えた。

東京一極集中・大都市一極集中が問題となり、地方創生が重要となる。

高校から大学へ進学したインテリの若者たちは、既存社会体制への反発からいわゆる学生運動と呼ばれた大学改革や、安保闘争ベトナム戦争反対の反体制運動に身を投じた。こうした動きは、都市部大学から地方大学へも広がり、全共闘運動などで日本政府や既成秩序に反発する新左翼的な活動へと転じていった。

しかし1969年(昭和44年)に東大紛争が敗北に終わり、70年安保闘争も不調に終わると、多くの若者が学生運動から(表面上は)離れていき、追い込まれた過激派の暴力行為がエスカレートしていった。更にあさま山荘事件や党派の分裂による内ゲバリンチの横行で、それまで穏健な支持を与えていた世間の目が冷たくなると、急速に学生運動離れが進み、さらにはオイル・ショックの影響による現実化・保守化もあって、1970年代半ばまでに、ほとんどの団塊若者は政治活動から距離を置くようになり、企業戦士に転向するものも多かった。一方で国鉄などの公共企業体や現業系公務員で労働組合活動を行っていた若者のなかには、スト権ストなどの過激な政治がらみの労働運動を行う者もいた。

文化的側面から見れば、ファッションという概念が浸透し始めた世代であり、男性はジーンズ、女性はミニスカートを好んで装い、レジャーやドライブを好むなど、そのスタイルは現代に至るまで続く若者文化の基盤と呼べるものであった。この世代は、それまで絶対的なものとして意識されていた欧米(主にアメリカ合衆国)と東洋(日本)の文化の対立を相対化し、ごった煮にして双方を楽しもうとする多文化世代の先駆けとなった。

これらの動きは、テレビの普及や昭和30年代終わりの日本の黒字化による海外情報の増大と、戦後世界の冷戦・ベトナム戦争・カウンターカルチャーといった動きと時代を共有している面も強い。つまり、戦後世界の中での日本の復興と成長と共に成長した世代である。
壮年期

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1960年代末から、結婚する男性(この時期は戦後の婚姻数の統計のピークだった)や子供を産む女性の率が徐々に増えてくる。

従来の家制度の意識が薄れ、核家族による家庭指向が強く、見合い結婚と恋愛結婚が逆転した世代である(国立社会保障・人口問題研究所『第12回出生動向基本調査夫婦調査の結果概要』)。そのため、団塊の世代が親元から独立して家庭を持つようになると、著しい住宅不足となった。この対策として、大都市の近郊には数多くの核家族向けの団地ニュータウンが造成された。

また大手企業は、社員の福利厚生用に集合住宅タイプの社宅を構えた。その周辺に生活物資を売る商店が集まり、衛星都市と呼ばれる中都市ができた。これによって大都市を取り巻く都市圏は大きく広がり、それに伴う通勤通学のための交通網の整備が急がれ、鉄道の輸送力増強や新線建設、道路の新設や拡張が行われた。都市膨張の時代である。

一方で、「男は職場、女は家庭」といった性別役割分業の傾向も極めて強く、団塊の世代の女性は25歳までに結婚して専業主婦として家庭に収まり(所謂「クリスマスケーキ理論」)、20代のうちに子供を2人産むというライフステージを辿った者が多く、高齢出産をした者、とりわけ35歳以上で第1子を産んだ者や40歳以上で子供を出産した者はまだ少なかった。(もっとも日本全体視点では、1970年代の石油ショックを境に、人口増大政策の廃止もあり、出生数は1990年代に至るまで直線的に下降していて、その連続の中にある)

1986年(昭和61年)から1991年(平成3年)のバブル景気時代には、団塊の世代は40歳前後の働き盛りとして社会の中核を担っており、仕事に没頭するあまり、家庭を顧みなくなったり、過労死で突然命を失った者も少なからず存在した。また、バブル経済による異常な地価高騰に加えて団塊の世代の持ち家取得時期ともちょうど重なったことから、大都市の市街地にマイホームを持つのは極めて困難になったため、特に首都圏では都心から100km前後離れた地域に住宅を取得せざるを得なくなり、新幹線通勤などの遠距離通勤を余儀なくされた者も少なくなかった。
中年期

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1991年(平成3年)にバブル崩壊ソビエト連邦の崩壊に遭遇し、「社会主義の没落」「グローバル資本主義の席巻」の中で中年期を迎えた。


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