因州藩
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旧因州池田屋敷表門(鳥取藩池田家の江戸屋敷の表門)。東京国立博物館

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大である。因州藩、因幡藩ともいう。石高は32万5千石。

江戸時代を通して池田氏が治め、因幡国鳥取城(久松山城とも称した。現在の鳥取市東町)を藩庁とした。また、因幡国内に鹿奴藩若桜藩の2支藩があった。
藩史

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男・長吉輝政の弟)が6万石で入封し立藩した。その跡を継いだ子の長幸元和元年(1615年)に備中松山藩転封し、代わって池田宗家の光政(輝政の子利隆の嫡男)が幼少を理由に播磨姫路42万石から因幡伯耆32万石に国替となった。光政は在封16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。

寛永9年(1632年)、備前岡山藩池田忠雄(光政の叔父)が死去すると、家督を継いだ嫡男光仲の幼少を理由に鳥取の光政と封地を取り替え(この忠雄死去と国替の前後に鍵屋の辻の決闘に関わり大きな注目を集めた。)、宗家の光政が備前31万5,000石、分家筋の光仲が因幡・伯耆32万5,000石を治めることとなった。いわゆる岡山との「お国替え」である。以降の鳥取藩池田家は分家筋ではあるが、輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた忠雄の家系であるため、宗家の岡山藩池田家から独立した国持大名とされ、松平姓を称する上、外様大名ながら葵紋を下賜されて親藩に準ずる家格を与えられた[1]。また、通常ならば大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが許された。これは鳥取池田家の他には御連枝会津松平家越前松平家の一門といった徳川一門親藩加賀前田家のみに許された特権であった[2]

因幡・伯耆のうち因幡国内に藩庁が置かれ、伯耆国内では米子に城が置かれて荒尾家が城代家老として委任統治(自分手政治)を行った。この他に倉吉八橋松崎浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ家老職にある家が代々統治を行った。これらの町は他の在郷村とは違い、城下の鳥取と同じ扱いを受け町年寄などの役職が置かれていた。

天保の大飢饉は、鳥取藩でも猛威を振るった。その被害は、「申年がしん」と称されている。

幕末の12代藩主慶徳は15代将軍となる徳川慶喜の同年の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも、尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。明治政府に登用された鳥取藩士には河田左久馬北垣晋太郎原六郎松田道之らがいる。
廃藩以後

明治4年(1871年)、廃藩置県により鳥取県となった。初代の権令(知事)には、本圀寺事件の首魁であった元藩士の河田景与が任命されている。池田家は明治17年(1884年7月7日に、15代当主池田輝知侯爵となり華族に列せられた。しかし明治23年(1890年)に亡くなり、従弟の池田仲博が婿養子となり16代として跡を継いだ。17代当主は長男の池田徳真(1904年 - 1993年)で、イギリス留学をきっかけにクリスチャンとなっている。著書を数冊刊行している。なお、姉の幹子は徳川宗敬の妻である。

18代当主は徳真の娘の池田百合子である。養子はいるものの家督を継ぐ者ではなく、百合子は当代限りで(旧鳥取藩主としての)池田家の終了を表明している。東京多磨霊園にあった鳥取藩主池田家の墓は、最後の藩主慶徳の東京移住を理由として大正14年(1925年)、仲博の時代に設けられていたが、こうした経緯により、平成15年(2003年)に鳥取市大雲院に移築改葬され、「史跡鳥取藩主池田家墓所保存会」[3]が設けられた。また、鳥取藩主池田家の分家(旧鹿奴藩主家)東館(ひがしやかた)池田家の墓も、東京都内から大雲院にある本家の墓所に移設され、同院で2010年5月15日、慰霊法要が営まれた。2007年2月に92歳で亡くなった東館池田家の13代当主池田仲親が生前、本家の墓所に合祀することを希望、3月に実現した。


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