この項目では、島について説明しています。かつて存在した自治体については「因島市」をご覧ください。
因島
2005年[1]
所在地広島県尾道市
所在海域瀬戸内海
所属諸島芸予諸島
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度19分0秒 東経133度10分0秒 / 北緯34.31667度 東経133.16667度 / 34.31667; 133.16667
因島(いんのしま)は、広島県尾道市に属する島である。 芸予諸島北東部に位置し、本州尾道から約17km南に位置する[2]。島の北東側は布刈瀬戸を挟んで向島、南西側が生口水道を挟んで生口島となり、それぞれ因島大橋・生口橋で結ばれしまなみ海道を構成する。東側は横島、北西側が細島・小細島・佐木島で、すべて広島県。南側が長崎瀬戸を挟んで愛媛県上島諸島(弓削島・生名島・岩城島)にあたる[3]。
地理
因島は旧因島市域の中心であったが、市町村合併により現在は尾道市となった[2]。島の中心は南西の土生町である[6]。その西側対岸の生口島に因島洲江町・因島原町とあるが、これは旧因島市域であったことによるものである。
島の北側は”安芸地乗り”と呼ばれた古くからの瀬戸内海の主要航路であった。これは四国と大島の海峡である来島海峡が瀬戸内海有数の海の難所であったため、そこを避けるようにこの島近辺に航路ができたことによるもので、中世においては村上海賊(村上水軍)の拠点として、近世は廻船操業、近代以降は造船業と、船で栄えた島である[7][2]。平地が極端に狭かったことから稲作は近代に入るまでほぼ行われておらず、古くは製塩が盛んであり、近代以降は丘陵地と温暖な気候を活かした商品作物、花や柑橘類の栽培が行われている[2][6]。棋聖本因坊秀策が生まれた地であり、囲碁の島としても知られる[8]。旧因島市はこの周辺の島嶼部において唯一市制施行したものであり、この島はインフラストラクチャーが充実し、周辺島々の中核を担っていた[9]。 旧石器時代、瀬戸内海一帯は一つの平地で、この島は一つの丘であった[10]。 大浜の尾道市史跡である大浜広畠遺跡は縄文後期から晩期にかけての土器が発見された遺物包含層であり[10]、つまり古来からこの地には人が住んでいた。またこの遺跡では製塩土器が発見されており、つまり古代から塩作りが行われていたことを示している[5][11]。 同じく大浜の因島第1号古墳は箱式石棺の古墳、島の南である三庄町の王子塚は半径7mの円墳であり、双方等も古墳時代のもので市史跡である[12]。 島の名の由来はいくつか伝承として残る。以下わかっている伝承を列挙するが、必ずしもこの順番で名前が変化したものではない。 精度の高い資料での初出は、『日本三代実録』での元慶2年(878年)12月15日条「授備後国無位隠島神従五位下」[16]。訓みの初出は、承平年間(931年から938年)に成立した『和名類聚抄』で「印乃之末(いんのしま)」[15][16]。因島の文字は建久2年(1191年)長講堂領の目録[14]には遅くとも出てきている。明治22年(1889年)町村制施行後、「因島(いんとう)」とも呼ばれていた[15]。 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、後白河院そしてそれに連なる人物の荘園となっている[16]。年貢は塩であった[17]。鎌倉中期の記録によると三津荘・(因島)中荘・重井荘と3つに分かれており、地頭は北条氏がすべて独占し得宗領であったと考えられている[16]。
因島土生町
因島大浜町
因島重井町
因島田熊町
歴史
古代
由来
斎島神社の由緒によると、神武東征の途中波浪のため難航した神武天皇は、大浜に船を止め寒崎山で数日間静まるよう祈願した。それから「斎島(いむしま)」と呼ばれるようになり、のち「隠の島(いんのしま)」に[13]。
因島(よりのしま)から「寄島(よりしま)」の字があてられたとするものもある[14]
「隠の島」 - 本州側から見ると向島・岩子島・細島・佐木島によって隠されているので「隠の島」に、のち「因の島」に[15]
「院の島」 - 後白河院の荘園だったことから「院の島」に、のち「因の島」になった[14]
荘園時代「因島荘」を参照