四阪島
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四阪島四阪島の空中写真。右下から時計回りに美濃島、家ノ島、鼠島、梶島、明神島。2009年4月15日撮影の5枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
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地理
場所瀬戸内海燧灘
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度6分33.2秒 東経133度10分54.9秒 / 北緯34.109222度 東経133.181917度 / 34.109222; 133.181917
諸島芸予諸島
島数5
主要な島家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島
面積1.26 km2 (0.49 sq mi)[1][2]
最高標高112 m (367 ft)[2]
最高峰美濃島

日本
愛媛県
今治市
宮窪町
人口統計
人口0人(2020年時点)
追加情報
全島住友金属鉱山が所有する私有地
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四阪島(しさかじま)は、瀬戸内海燧灘今治市大島の南東約10km、愛媛県新居浜市の北北東約18kmに浮かぶ5つの(家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島)の総称である[注釈 1][1][2]。全域が愛媛県今治市(旧越智郡宮窪町)に属する。また、同市の地名として住所表記にも用いられており、四阪島に属する島々の住所表記は、愛媛県今治市宮窪町四阪島となる。郵便番号は、792-0080。
概要家ノ島(手前)と美濃島(奥)、上空より撮影。埋立によって陸続きとなっている

家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に「四阪島」と呼称される[注釈 1][2]愛媛県今治市(旧宮窪町)に属するが、産業的にも社会的にも同県新居浜市と深いつながりがある。

現在、家ノ島には住友金属鉱山の子会社四阪製錬所の工場があり[3]、全島が住友金属鉱山の所有(管理下)となっている[2]。ただし島には住民はおらず、工場の従業員は定期船で新居浜から通っている。
沿革・歴史

1691年(元禄4年)に別子銅山が開坑して以来、住友は製錬事業所を、別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区(現在の新居浜市惣開町[1])と移してきた。しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死するなどした。当時の別子銅山の支配人をしていた伊庭貞剛の決断で新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に製錬所を移すことになった。1895年(明治28年)に住友は四阪島を買収[注釈 2][1][2]1905年(明治38年)より精錬所の操業を開始した[1][2]

同時期、足尾銅山などでもこの問題は深刻化しており、足尾銅山の公害問題を追及していた田中正造は、別子銅山の精錬所が無人島に移転したことを称賛し、1901年(明治34年)3月23日第15回帝国議会において「伊予の国の別子銅山は、第一鉱業主は住友である、それ故社会の事理(ことわり)人情を知って居る者で、己が金を儲けさえすれば宜いものだと云うような、そう云う間違いの考えを持たない」と演説した[5]

製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。なおこの際、埋め立てには鉱滓が使用されたという[1]。学校は私立の住友四阪島尋常小学校が1901年(明治34年)に設置され、1920年(大正9年)には生徒数1,000人を数えた(なお、同校は1961年(昭和36年)に公立に移管、同時に中学校が分離したが、いずれも1977年(昭和52年)に廃校となっている)。1922年(大正11年)には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給された。

しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる結果となり、越智郡のみならず周桑郡新居郡宇摩郡と、東予地方ほぼ全域が被害を被った[1]1909年(明治42年)、国の鉱毒調査委員会は短い多数の煙突で亜硫酸ガスを大気と希釈させる方法を提案。1915年(大正4年)までに6本の煙突が完成して稼働するも、四阪島一帯がより高濃度の亜硫酸ガスに覆われて失敗に終わる[6][7]。このため、精錬所の精錬鉱量の制限や保証金支払いが行われた[1]。この被害は、1930年(昭和5年)のペテルゼン式脱硫装置の設置、そして1939年(昭和14年)の硫煙処理装置の設置まで続いた[1][2]。なお、この時の補償金をもって越智郡は越智中学校を設置。同校は今日の愛媛県立今治南高等学校の前身である。

最盛期は大正末期で、この時期は人口5,500人を超えており、1960年代前半においても約4,000人の人口を抱えていた[2]。しかし、1973年(昭和48年)の別子銅山の閉山に加えて、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下し、順次合理化が図られた[2]1976年(昭和51年)12月に溶鉱炉の火は消え、1977年(昭和52年)4月には一部の工場関係者を除く島民は島を離れ、小中学校も廃校となった[2]。同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島であった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、もとから集落の栄えていた直島と異なり、元々無人島だった四阪島は1988年(昭和63年)以降、無人島へと戻った。71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼる[2]

銅の精錬所に加えて、1977年(昭和52年)には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成しており、製鉄の過程で排出される製鋼煙灰から亜鉛を回収するリサイクル事業を行っている[3]。50人程度の従業員が島内で従事しており、この従業員は新居浜港から船で通勤している[2]

なお、四阪島の工場は住友金属鉱山四阪工場として運営されていたが、2010年10月に住友金属鉱山から株式会社四阪製錬所として分社化され、同社の工場として操業が続いている。

住友別子鉱業所四阪島製錬所(当時)

四阪島の社宅群(当時)

住友別子鉱業所四阪島製錬所全景(1910年頃の撮影)。

交通

新居浜港から住友金属鉱山の専用船(高速船、普通船)が出ている(住鉱物流が運航、乗船は関係者に限る)[2]


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