四王天 延孝
生誕1879年9月2日
日本 埼玉県[1]
死没1962年8月8日
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1899年 - 1929年
最終階級 陸軍中将
除隊後衆議院議員
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四王天延孝
四王天 延孝(しおうでん[2][3][4][6] のぶたか、1879年〈明治12年〉9月2日[5][7] - 1962年〈昭和37年〉8月8日[5][7])は、日本の陸軍軍人、政治家。ユダヤ陰謀論を唱え『シオン賢者の議定書』の邦訳などを行なった。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。旧姓・西村。 前橋藩士・西村茂兵衛の弟として生まれ[5]、川越藩士[要出典]・四王天政彬の養嗣子となる[5]。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し[7]、翌年6月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる[5][8]。 清国駐屯工兵中隊付などを経て日露戦争に出征[5]。近衛工兵大隊中隊長、大本営運輸通信長官部副官、陸士教官、近衛工兵大隊付などを歴任し、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業した[5][7][8]。 関東都督府陸軍参謀、工兵第7大隊付、陸軍砲工学校教官、フランス軍従軍などを経て、1920年(大正9年)1月、シベリア出兵に際し浦塩派遣軍司令部付として出征し、さらに関東軍司令部付となりハルピン特務機関長を務めた[5][7][8]。 1922年(大正11年)4月、陸軍航空学校教官となり、以後、同下志津分校長、陸軍省軍務局航空課長などの航空畑の役職を歴任し、1924年(大正13年)8月、陸軍少将に進級した[5][8]。 陸軍兵器本廠付、国際連盟陸軍代表、兼同空軍代表、豊予要塞司令官、第16師団・第3師団の各司令部付などを経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍中将に昇進し予備役に編入された[5][7][8]。 以後、帝国飛行協会専務理事、大日本回教協会会長などを歴任した[5]。戦時色が強まる中、国家主義的活動にも参画し、1939年(昭和14年)に対支同志会が主催した「英国排撃市民大会
経歴