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士農工商(しのうこうしょう)または四民(しみん)は「国中のすべての人びと」といった意味合いの儒学的表現である[1]。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったがこれは誤りであり、1990年代頃から実証的研究が進み、同時代的に現実に施行された制度ではないと理解されるようになった[2]。 士農工商(四民)は、古代中国から用いられた言葉で、紀元前1000年頃には既に見られる[注 1]。意味としては、『漢書』食貨志上「士農工商、四民に業あり(士農工商、四民有業)」とあるように、「民」の職業は4種類に大別されるということになる。そして、これを連続して表記することで、「老若男女」のように、あらゆる職業の民、つまり「民全体」または「みんな」といった意味で使われる。 近世日本では、遅くとも17世紀半ばまでに「士」が武士を意味するように意味が改変されて受け入れられた。また、近代以降には「士農工商」が、近世の身分制度とその支配・上下関係を表す用語として認識されるようになった。 しかし、1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが、実証的研究から明らかとなり[3]、2000年代には「士農工商」の記述は、文部科学省検定済教科書から削除された[4]。また「四民平等」も本来の意味(すべての民は平等)ではなく、「士農工商の身分制からの解放」という認識を前提に用いられたものであったため、これも削除された[2]。 士農工商とは中国の春秋戦国時代(諸子百家)における「民」の分類で、例えば『管子』匡君小匡には「士農工商四民者、国之石民也」と記されている。士とは周代から春秋期頃にかけてまでは都市国家社会の支配階層である族長・貴族階層を指していたが、やがて領域国家の成長に伴う都市国家秩序の解体とともに、新たな領域国家の統治に与る知識人や官吏などを指すように意味が変質した。この「士」階層に加えて農業・工業・商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語になっていった。四民の順序は必ずしも一定せず、『荀子』では「農士工商」[注 2]、『春秋穀梁伝』では「士商農工」[注 3]の順に並べている。 なお、中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。 士農工商の概念は奈良時代までには日本にも取り入れられ、続日本紀卷第七では「四民の徒、おのおのその業あり」などと記されている。日本における「士」がいつごろ本来の意味から武士を意味するように改変されたかは明確ではないが、遅くとも17世紀半ばまでにはそのような用法が確立したと思われる。文献的証拠として、慶長8年(1603年)にイエズス会の宣教師が出版した『日葡辞書』と呼ばれる辞典には「士農工商」の項目が収録されており、また宮本武蔵『五輪書』(1645年)地之巻に「凡そ人の世を渡る事、士農工商とて四つの道也。(中略)三つには士の道。武士におゐては、道さまざまの兵具をこしらゑ、(後略)」[5]といった用例がある。 異説もあるが、徒士や足軽の多くが武装した農民から発生したものであるため、「士」と「農」の違いはかなり曖昧なものであった。その転換期は戦国時代後期である。天正9年(1582年)頃から始まった太閤検地や天正16年(1588年)の刀狩によって、それまで比較的流動性があった武士と百姓が分離され、その職業(身分)が固定化されるようになった。 こうした兵農分離政策は江戸時代に強化され、職業は世襲制となった。また、「士」(武士)が「四民」ではなく支配者層として他の四民(三民)より上位に置かれ政治を行う階級とされ、苗字帯刀、切捨御免などの特権が認められ、髷の結い方、服装[6]などに差異が設けられ、士分とそうでないものの結婚は禁止された。しかしながら、江戸時代中期頃になると貨幣経済や産業の発達により、商人が政治・経済に強い影響力を持つようになり、大名貸のように武士が経済的に商人に依存するようになった。このため商人には町人でありながら扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられる者もいた。大隈重信(幕末の武士(佐賀藩士、志士) これに類する立場として、医師の存在があげられる。尾張藩の人見黍 さらに藩の召し抱えで、職人が昇格することも多くあった。例として田中久重が挙げられる。 上記のように、士農工商の職業概念は、実際の身分制度とは大きく異なっている。 江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものであった。また「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。しかし百姓・町人身分は「平人」身分としてくくられ、「平人」が武士になることは多くなく、また、「平人」が「えた」「ひにん」などになることはめったになかった[8][注 4]。百姓(俗に農人という) 「穢多」「非人」などと呼ばれた人々は、公家や武士はもちろん百姓や町人からも一線を画されており、彼らは「人外」、すなわち同じ人間ではないかのようにみられ、人づきあいから「排除」されていたが、身分制度上の分類であり人別帳の枠内にある[9]。
概要
歴史
士農工商の発生と中国
日本における士農工商の導入
近世日本の士農工商
兵農分離
江戸時代の身分体系
(『和漢三才図会』(正徳2年(1712年)成立)より)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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