四月革命_(韓国)
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四月革命

日時1960年4月
場所 韓国(全国)
原因3.15不正選挙と金朱烈の死
目的民主化李承晩の下野
手段デモ
結果第二共和国の出帆
参加集団

大韓民国国民
民主党自由党系の政権
警察

指導者

張勉
尹?善李承晩
李起鵬

人数

10万人以上

死傷者数

死亡:186人
負傷:6,026人

4月革命
各種表記
ハングル:4.19??
漢字:四一九革命
発音:サイルグヒョンミョン
日本語読み:よん・いちきゅうかくめい
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四月革命(しがつかくめい)とは、1960年3月に行われた第4代大統領選挙(3.15不正選挙)における李承晩による大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。

最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命(サイルグヒョンミョン、4・19??)、4.19(サイルグ、???)、4.19学生革命とも言う。
4月革命前の状況

1960年3月に行われた大統領選挙の焦点は当時既にかなりの高齢(当時84歳)であった李承晩の後継問題にあった。1956年大統領選挙では、野党・民主党の大統領候補・申翼煕が遊説中急逝し、大統領は与党の李承晩候補が棚ぼた的に勝利したものの、副大統領選挙については民主党の張勉候補が弔い票などを集め自由党の李起鵬候補を押さえて当選し、政権内に与野党が共存するねじれ現象がおきた。そのため李承晩は自由党の政権継続を確固たるものとすべく、四捨五入改憲など、大統領権限の強化と張勉副大統領への干渉・進歩党事件など民衆運動の弾圧を行い、独裁色を強めた。
3.15不正選挙

大統領選挙で自由党は李承晩大統領を正大統領候補、李大統領側近の李起鵬[注釈 1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方、野党である民主党は趙炳玉と張勉を正副大統領候補に擁して選挙戦を戦ったが、選挙運動最中の2月15日に趙炳玉が死去[注釈 2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領選挙は張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くした不正選挙[注釈 3]を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[注釈 4]。これに対し民主党は投票締め切り30分前に、本選挙は不正選挙で無効であることを宣言した。
3・15馬山事件

3月15日の大統領選挙投票日当日、慶尚南道馬山(マサン、現・昌原市)で、民主党側の投票立会人が強制的に投票所から追い出されたことをきっかけに、学生と市民が大統領選の無効を主張して街頭デモを起こした。これに対し警察はデモ参加者に無差別発砲してデモ鎮圧を図り、8名が死亡、50名余が負傷し、デモは鎮圧された(第一次馬山事件、韓国では馬山義挙とも呼称される)。しかし、このデモに参加して行方不明となっていた馬山商業高校学生の金朱烈(朝鮮語版)(キム・ジュヨル)が27日後の4月11日、馬山沖の海上で目に催涙弾が突き刺さった遺体となって発見[1]されたことをきっかけに学生・市民が再び街頭デモを展開、反政府機運が高まった(第二次馬山事件)。馬山事件は全国の学生達の李承晩政権に対する反感を一層強めた。後に馬山事件3・15義挙は国家記念日に制定されることとなる[2]
4月18日高麗大デモ

第2次馬山事件をきっかけに各地で学生によるデモが発生し、4月18日には首都ソウル市においても高麗大学校の学生約3,500名が馬山事件で逮捕された学生の釈放と学園の自由などを求めて市街地をデモ行進した[注釈 5][3]。その後、デモ隊は国会議事堂(旧京城府民館)前で座り込みをした後、午後7時頃には大学に戻り始めていた。そしてデモ隊が鍾路4街付近に差し掛かった時、景武台の警護責任者である郭永周(朝鮮語版)から指令を受けた政治ゴロである李丁載(朝鮮語版)や林和秀(朝鮮語版)などの息がかかった暴徒100名余りがデモ隊に襲いかかり、約20名余りの学生が重軽傷を負う事態となった[4]。学生デモに対する暴徒の襲撃は学生や市民の強い反発を招く結果となり、4月革命の直接的な契機となった。
4月革命
4月19日学生デモ

4月18日の高麗大生デモが行われた翌19日、ソウル大学を初め延世大学校中央大学校などソウル市内の大学生数万名が決起し、デモ行進を行った。そして同日正午には、大統領官邸である景武台を包囲し、一部のデモ隊は副大統領候補で李承晩大統領の側近である李起鵬の自宅を占拠した。デモには中学高校生や一部市民も参加し午後2時半頃までにはデモ隊の規模は20万名余りにふくれあがり、李承晩大統領の退陣と不正選挙無効のスローガンを叫んだ。

デモ隊に対し警察は、景武台や中央庁付近で無差別発砲を行い多数の死傷者が出た。これに激高した一部のデモ隊は市内各所の警察官派出所、与党系の新聞であるソウル新聞社屋、反共会館(3・15不正選挙において前衛隊の役割を担った大韓反共青年団の本部が置かれていた)を焼打した。デモはソウルのみならず全国各地に波及し、釜山や光州、大邱、清州、仁川など各地方都市でもそれぞれ数千名余りの学生デモ隊が警官隊と衝突した[5]

全国各地で発生したデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人に登った。これに対し李政権は19日午後5時を期してソウル釜山大邱光州の各都市に戒厳令を布告したが、は政治的中立を維持、デモ隊鎮圧のための積極的行動は行わなかった。
4月25日教授団デモ

4・19デモ翌々日の4月21日国務委員(閣僚)と自由党党務委員が4・19デモの責任を取る形で一括して辞表を提出した[6]。そして23日には副大統領選挙の当選者である李起鵬が当選辞退を考慮する旨を表明、同じ日には張勉副大統領が辞任を表明した[7]


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