四日市コンビナート
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四日市コンビナートの夜景

四日市コンビナート(よっかいちコンビナート)は、三重県四日市市にある石油コンビナートである。当コンビナートは、造成順で、第1コンビナート(塩浜地区)と第2コンビナート(午起地区)および第3コンビナート(霞ヶ浦地区)の、3箇所の地区から成る[R 1]

第2次池田内閣(1960年12月8日 (63年前) (1960-12-08)成立)において1960年12月27日 (63年前) (1960-12-27)に閣議決定された『国民所得倍増計画』は重化学工業を軸に経済成長を目指す政策であった[R 2][R 3]。既存の四大工業地帯の周辺に鉄鋼石油精製石油化学火力発電所を結ぶコンビナートを造る『太平洋ベルト地帯構想』が要締の一つであり、そのトップを切ったのが四日市コンビナートであった。
コンビナート形成と公害発生から現在まで

初の公選市長である吉田勝太郎(8代四日市市長・10代四日市市長)と吉田千九郎(9代四日市市長)が、コンビナートを誘致の計画と【旧】大日本帝国海軍第2燃料廠[A 1]の跡地を【旧】三菱財閥[A 2]系の三菱油化三菱化成工業三菱モンサント化成シェル石油と資本提携していた昭和石油をはじめとする企業などへの、激しい企業間競争の末の、払い下げで、コンビナート施設を建設するための下地を整えた。(11代四日市市長)の平田佐矩日本で最初のコンビナートを誘致した。原油から蒸留分離されたナフサなどが各工場間をパイプライン輸送され[A 3]て、石油化学製品が製造された。

当時、四日市の都市計画を作った東京大学の都市工学科のグループは、石炭を使った戦前型の古い工業地帯と違って石油を軸にした最新鋭の設備であるから「太陽と緑の新しい工業空間」になる、と海外にまで紹介した[R 4]

コンビナートの誘致に成功した四日市市は、全国の地方自治体の羨望の的であったが、当時は公害対策の考えが乏しかったこともあり、地域開発の旗手だと思われていたコンビナートが後に四日市ぜんそくとして全国的に知られる深刻な大気汚染公害を引き起こし、大きな問題となった[R 5]。1972年7月24日 (51年前) (1972-07-24)に四日市ぜんそくの公害訴訟の判決があり、津地方裁判所四日市支部は第1コンビナート(塩浜地区)と第2コンビナート(午起地区)に立地していた被告の6社(石原産業中部電力昭和四日市石油三菱油化三菱化成工業三菱モンサント化成)を共同不法行為があったと認定して原告9人への賠償を命じた[R 6][R 7][R 8]。現在では、有害物質の排出が規制され、公害も収束してきている。

近年では、四日市コンビナートの事業所が共同で、三重大学の(化学とは関係の薄い)機械や電気・電子を専攻する学生を対象に見学会を開催している[R 9][R 10]

四日市コンビナート内の事業所は、第2コンビナート(午起地区)形成当時[R 11]と第3コンビナート(霞ヶ浦地区)形成当時[R 12]のそれぞれについて、四日市公害と環境未来館によって纏められている。
第1コンビナート(塩浜地区)

当コンビナートは四日市市長(当時)の吉田千九郎および吉田勝太郎によって誘致された。なお、稼働する頃には四日市市長は平田佐矩に代わっている。

嘗て、この地区の企業によって、磯津地区・塩浜地区・三浜地区・浜田地区・日永地区・三重郡楠町に公害が拡大し、塩浜ぜんそく(初期の四日市ぜんそく)の原因となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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