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四日市コンビナートと白いスモッグ原因となった二酸化硫黄は、マスタード・ガスを含む硫黄酸化物(SOx)の一つ。金毒中毒症状の喘息や酸性雨の原因となる。
四日市ぜんそく(よっかいちぜんそく)は、1950年代末から1970年代にかけて問題化した戦後日本の公害問題。大気汚染による集団喘息障害で、水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病とあわせて、四大公害病の一つである。
三重県四日市市の四日市コンビナートから発生した二酸化硫黄が原因で、同市塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・海蔵地区などの四日市市中部地域から南側の三重郡楠町(現:四日市市)にかけて発生し、1959年(昭和34年)から1972年(昭和47年)にかけて政治問題化した。
漢字では、四日市喘息と表記する。水質汚染を含めた環境問題としては、四日市公害と呼ばれている。四日市公害が発生した当時は別名では塩浜ぜんそく(四日市市内で使用)[1]の名称や、大気汚染が原因で発生した健康影響事件として[2]四日市のぜんそく事件(国会内で使用)の名称で呼ばれていた。 1959年に入り、四日市コンビナート(第1コンビナートの工場群)に隣接する四日市市南部で急激に喘息患者が増加した。特に四日市公害の犠牲者が多くて公害病が深刻だったのが、第1コンビナート付近の塩浜地区工業地帯と第2コンビナート汚染物質直撃の海蔵地区の万古焼産業の地域である。塩浜地区及び海蔵地区で多数の公害病の犠牲者がいて、1000人近くの多数の死亡者がいた。塩浜地区民及び海蔵地区の住民の4割が健康被害や呼吸器の呼吸機能の異常症状を訴えていた。鈴鹿川沿いの漁村磯津地区は特に重症患者が多く「塩浜ぜんそく」や「四日市ぜんそく」と呼ばれた。発生当初は特に問題視されなかったが、昭和40年代に国会でも「四日市公害」や「四日市のぜんそく事件」と呼ばれ社会問題となった。三重県内でコンビナート企業を優遇する九鬼市長を支援していた自民党側と、公害患者側の市民と激しい政治紛争となった。昭和45年の公害国会で環境問題が集中審議された。 第1コンビナートの操業開始当時、排出される硫黄酸化物の総量は年間10万トン近くまで増加した。石油は石炭のような黒い煤煙を出さないので、石炭よりもクリーンに見えたが、実は気管や肺に障害を引き起こす硫黄酸化物を多く含んでいた。これが喘息の主要因として指摘される。当時、石炭の黒いスモッグに対して、四日市の煙は白いスモッグと称された。 特に四日市のコンビナートでは、中東産の硫黄分の多い原油を使っていたことが、被害を悪化させた。1963年の第2コンビナート操業開始により大気汚染は更に悪化、1964年に喘息による初めての死者が発生した。高齢の患者が病気の苦しさや家族にかける負担などに悩んだ末、自殺する事件も起きている。 四日市市は公害病と認定した市民に対し、市費で治療費を補償する制度を1965年に開始。当時は国側にも公害患者を公費で救済する制度はなく、市の試みは全国初だった。認定患者の数は同年5月に行われた第1回の審査の時は18人だったが、1967年6月末には381人、1970年9月末には544人と急増。患者の増加に市だけでは治療費を負担できなくなり、国や企業も分担金を出すようになった。 四日市の大気汚染を改善したのは、高煙突ではなく、脱硫装置の普及やより硫黄分の少ない原油への切り替えだった。この2つは硫黄酸化物削減法としては、当時最も効果的であった。国と企業は硫黄分の少ない原油の輸入を増やすと同時に脱硫装置の開発を研究する。厚生省(現・厚生労働省)は、疫学的な手法で大気汚染による呼吸器への影響調査・検証をし、その結果高い有症率と大気汚染の関係を立証した。 1967年の塩浜中学校3年生の女子学生の四日市ぜんそくでの入院中の死亡を契機に四日市市民の怒りが爆発し、悲惨な状況を打破するため前川辰男(日本社会党所属の四日市市議会議員)はコンビナートの企業の内、明らかに加害行為が立証された6社(石原産業、三菱油化、三菱化成工業(現 三菱ケミカルHD)、三菱モンサント化成(現 三菱ケミカルHD)と中部電力、昭和四日市石油のみに絞り込み、四日市公害訴訟を開始した。 一企業のみの加害行為(水俣病はチッソ、イタイイタイ病は三井金属鉱業、新潟水俣病は昭和電工)が明らかだった他の四大公害病と比較して、複数の工場群(四日市コンビナートには多数の企業が存在する)による四日市公害を裁くのは困難を極めたが、弁護団や科学者など多くの支援によって1972年に四日市公害裁判に勝訴した[3]。 四日市コンビナートが建設されたことによって、1960年代に四日市市は急速に工業化された。工場の生産活動で大量の亜硫酸ガス(硫酸ミスト)が大気中に排出された。三重大学医学部公衆衛生学教室に所属していた吉田克巳 公害患者が発生した塩浜地区が、四日市コンビナートの亜硫酸ガス排出源の風下の位置であり、地理的に亜硫酸ガスの着地点で濃度が高いことから、四日市ぜんそくは亜硫酸ガス(二酸化硫黄)や二酸化窒素や二酸化炭素の増加が原因であるとした。昭和30年代に三重県四日市市で(塩浜地区に)第1コンビナートが操業を始めたことを発端とする公害対策として排出量の規制が行われた。四日市ぜんそくによって悪名の意味で四日市市の知名度が向上した。 四日市ぜんそくを引き起こした有害物質の中で、一番影響が強かったとみられる物質は、四日市コンビナートから10万トン排出された硫黄酸化物 (SOX) であった。石油は石炭と違い黒いばい煙を出さず、石炭よりもクリーンなエネルギーと呼ばれていたが[4][5]、気管や肺の障害や疾患を引き起こす硫黄酸化物を多く含んでいた。四日市コンビナートでは中東産の硫黄分の多く含んだ原油を使用していた。 中部電力があった第2コンビナートと化学系企業が中心であった第1コンビナートから硫黄酸化物が排出されて「白いスモッグ」と呼ばれた[6]。四日市市は救済に乗り出したが犠牲者は1000人を超えた。四日市コンビナート企業の有罪が確定してから、官民あげての公害被害者対策が講じられた[7]。 気管支炎や気管支ぜんそくや咽喉頭炎など呼吸器疾患になる。大気汚染による慢性閉塞性肺疾患であり、息苦しく、喉が痛み、激しい喘息の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。心臓発作や肺気腫(肺がん)を併発する場合もある。 黒川調査団 の四種類の疫病が『閉塞性呼吸器疾患』と総称されて、医療費のうち国民健康保険などがカバーする以外の自己負担分を四日市市が支払った[8]。
概要
原因
症状
気管支ぜんそく
ぜんそく性気管支炎
慢性気管支炎
肺気腫