中華民国 四川省
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四川省(しせんしょう)は、かつて中華民国に存在した省。1955年以降の四川省とは管轄範囲が大きく異なる。 中華民国建国当初に設置されて以来、3度にわたる管轄区域の縮小が行われている。1914年(民国3年)、康定、安良、化林、瀘定、雅江、道孚、太寧、理化、懐柔、定郷、稲城、貢?、巴安、義敦、徳栄、武成、塩井、寧静、昌都、察雅、貢県、察隅、科麦、恩達、ケ柯、甘孜、炉霍、石渠、徳格、白玉、同普、丹巴、嘉黎、碩督、太昭の各県が川辺特別区に、1938年(民国27年)9月には雅安、天全、?経、蘆山、漢源、宝興、西昌、冕寧、塩源、昭覚、会理、塩辺、越?、寧南の各県および金湯、東寧の両設治局が西康省に移管されている。 また1939年(民国28年)5月には重慶市が院轄市に指定され四川省政府より分離、同時に巴県の一部が重慶市に移管されている。1947年(民国36年)時点での管轄区域面積は303,318平方キロメートルであり、東は湖南省および湖北省、西は西康省、南は湖南省及び貴州省、北は陝西省及び甘粛省と接していた。 1911年(宣統3年)10月10日、辛亥革命が発生すると、11月21日に広安県にて蜀北軍軍政府が成立、11月26日には瀘県にて川南軍政府が設立した。また27日には成都にて大漢軍政府及び張培爵、夏之時 1912年(民国元年)1月、川南軍政府が蜀軍軍政府に合流、2月2日には蜀軍軍政府と大漢軍政府が統合され四川軍政府が誕生した。同年7月12日、民政長官として民政長を設置、1914年(民国3年)5月23日に民政長は巡按使、1916年(民国5年)7月6日に省長と改称された。 1926年(民国15年)11月27日、国民党中央政治会議は川康綏撫委員会 1930年(民国19年)2月以前は成都県 中華民国が成立すると他省では清代の道制が廃止されたが、四川省では1911年(宣統3年)に公布された『四川宣慰使章程』に依拠し道長官による行政権限が定められている[1]。1913年(民国2年)2月7日、全省に川西道、川東道、上川南道、下川南道、川北道、辺東道、辺西道の7道が設置されている。1914年(民国3年)4月に辺東道及び辺西道が川辺特別区に移管[2]、同年5月には道名の改称が実施され、西川道、東川道、建昌道、永寧道、嘉陵道とされた。 南京国民政府に帰順した後は、中央では道制廃止の方針が策定され他省では直ちに道制が廃止されたが、四川省ではその後も道制が存続している。1929年(民国18年)、南京政府は『国民政府より四川省政府に対し道尹廃止および実業庁名称変更に関する電報』を発し四川省政府に対し道制の廃止を通達、これを受け1930年(民国19年)になり道制がようやく廃止された。 中華人民共和国成立直前の管轄行政区画は下記の2市142県3設治局1管理局。(50音順)
管轄区域
行政沿革
省会
行政区画
道制
西川道
東川道
建昌道
永寧道
嘉陵道
県級行政区画
市
自貢市
成都市
県
安県
安岳県
威遠県
?連県
雲陽県
栄県
永川県
栄昌県
営山県
塩亭県
旺蒼県:1941年10月、広元県の一部に旺蒼設治局を設置。1946年7月改編。
温江県
雅安県
開県
開江県:清代の新寧県。1914年1月改称。
岳池県
峨辺県
峨眉県
華陽県
灌県
簡陽県