『五音篇海』(ごおんへんかい)または『四声篇海』(しせいへんかい)[1]は、金の韓孝彦・韓道昭
父子によって1208年に編纂された字書。正式名称は改併五音類聚四声篇(かいへいごおんるいじゅうしせいへん)[2]。「篇」とは『玉篇』の意味。全15巻からなり、444の部首を五音三十六字母、すなわち頭子音の順に並べる。見母金部に始まり、日母日部に終わる。頭子音の同じ部首は平・上・去・入の四声によって並べている。同じ部首の字を筆画順に並べており、部首画数引き字書である。ただし、画数順になっているのはひとつの部首に200字以上を含むような大きな部首に限られ、すべての部首が画数順になっているわけではない。
収録字数は54,595字[3]と非常に多い。『玉篇』を中心にして複数の字書から文字を採用しており、他の文献に見えない漢字を大量に含むことも特徴である。『康熙字典』や『大漢和辞典』の引く奇妙な字は『五音篇海』からの孫引きであることが多い。 部首画数引きの字書は『五音篇海』が最古ではなく、先行する王なにがし・秘詳らの『篇海』があることは『五音篇海』の序の文章によって以前から知られていたが[4][5]、最近になって現存最古の部首画数引き字書である金の?準『新修?音引証群籍玉篇』[6]の中に王太『増広類玉篇海』を大定4年(1164年)に秘詳らが重修した『大定甲申重修増広類玉篇海』の序文が載っているのが発見され、詳しい事情がわかるようになった[7]。 『増広類玉篇海』は『玉篇』22,872字をもとにして、これに『省篇韻』『搨本篇韻』『陰佑餘文』『古龍龕』『龕玉字海』『会玉川篇』『奚韻』『類篇』(現存の『類篇』とは別の書ではないかという[5])の8書から採った39,364字を加えた大部の字書であった。これらの書のうち『古龍龕』は『龍龕手鑑』のことだが、それ以外は現存しない。採字元の書は書名を書くかわりに記号で表すが、『省篇韻』『搨本篇韻』『龕玉字海』の3書には記号が存在しない。部首はおおむね『玉篇』のものを使うが、同じ部首の字は画数によって並べられていた。 韓道昇(韓孝彦の甥)による『五音篇海』の序によると、明昌7年(1196年)、韓孝彦は『玉篇』の部首を三十六字母によって並べかえた『五音篇』[8]という字書を作った。ついで泰和8年(1208年)、韓孝彦の次男韓道昭 小川環樹によると、444の部首の内訳は、『玉篇』に由来するものが422部、『龍龕手鑑』に由来するものが22部であるという[9]。 『五音篇海』も『増広類玉篇海』と同様、採字元を記号で表すが、新たに『対韻音訓』『捜真玉鏡』『併了部頭』『俗字背篇』の記号が追加されている。このうち『対韻音訓』は多音字の音を追加したものを指し、『併了部頭』は韓道昭が併合したために部首でなくなった字につけた記号で、いずれも書名ではない[7]。序によると『捜真玉鏡』からは1万字ほどを追加したとあり、この本が主な追加元であったことがわかる。『捜真玉鏡』は現存しないが、小川環樹によるとおそらく道教関係の字書であり、韓孝彦自身が道教と関係の深い人であった[4][10]、 各字には反切または直音注で音を示し、意味を記すが、意味が書いてない字も多い。 『五音篇海』には金刻本の残巻がある。 韓道昭にはほかに『広韻』式の韻書だが、同韻の文字をやはり五音三十六字母の順に並べた『五音集韻』15巻がある。明の成化3年(1467年)、僧の文儒らが二書を校刊し、合わせて『篇韻類聚』30巻と称した[11]。この成化重刻本が現存する最古の完本である。 明代には何度も重刻された。成化重刻本のほかには正徳重刻本(1515年)・万暦重刻本(1589年)などがある。
増広類玉篇海
五音篇海
テキスト
脚注^ 『四庫全書総目提要』ではこの書を『四声篇海』と呼んでいる
^ 小川(1977) p.253 によると元は「四声篇」であって「四声篇海」ではなかった。
^ 梁(2008)による
^ a b 小川(1977) p.249
^ a b 小川(1981) p.270
^ ?準『新修?音引證群籍玉篇(一)
^ a b 梁(2008)
^ 書名は『五音集韻』寒韻「韓」字の注に見える
^ 小川(1981) p.271
^ 小川(1981) p.272
^ 『四庫全書総目提要』による
参考文献
梁春勝 (2008年). “ ⇒《新修玉篇》《四声篇海》引書考”. 復旦大学出土文献与古文字研究中心. 2014年8月12日閲覧。 (中国語)
小川環樹「宋・遼・金時代の字書」『中国語学研究』創文社、1977年(原著1962年7月)、248-251頁。