四万温泉
四万川と温泉地
温泉情報
所在地 日本
群馬県吾妻郡中之条町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度41分10.2秒 東経138度46分29秒 / 北緯36.686167度 東経138.77472度 / 36.686167; 138.77472
四万温泉(しま おんせん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:四萬?泉)は、日本の群馬県吾妻郡中之条町四万(近世における上野国吾妻郡四万村、幕藩体制下の上州御料四万村)に所在する温泉である。三国山脈に発して南進する四万川の(吾妻川の支流)上流域に位置する。
名前は「四万の病を癒す霊泉」に由来するとの説があり[3][4]、鎌倉時代から知られている[3]。古代に開湯されたと伝えられている(※後述)。
湯宿は永禄6年(1565年、戦国時代末期)に初めて設けられた[5][1]。宮城県の峩々温泉、大分県の湯平温泉と共に、胃腸病に効く「日本三大胃腸病の名湯」と呼ばれてきた[6][7][4]。上毛かるたでも「世のちり洗う四万温泉」と詠われている[4]。また、四万温泉は古くから「草津の仕上げ湯」と呼ばれてきた[6]。これは、強酸性の草津の湯(草津温泉)で湯治をした後、保湿・美肌効果のある塩化物・硫酸塩泉である四万温泉に滞在するのが定番になっていたことに由来する[6]。1954年(昭和29年)には酸ヶ湯(青森県)・日光湯元温泉(栃木県)と共に国民保養温泉地の第1号に指定されている[8]。 開湯伝説は2つあるが、いずれも桓武天皇治世後半の延暦年間(782-806年、奈良時代末期?平安時代初期)に属する。 湯宿は永禄4年(1563年、戦国時代末期)に初めて設けられた[5][15][1]。真田昌幸は戦乱で荒廃した道路や橋を復旧し、田村彦左衛門を湯守に任命して湯治場を整備した[16]。 その後、徐々に温泉街が形成されていった。現存最古の湯宿である「積善館(せきぜんかん)」は、元禄4年(1691年、江戸時代前期)に開業している。 江戸時代後期に寂れてしまったが、1889年(明治22年)に県道が開通すると、人力車や馬車が通るようになって入浴客が増加し、四万温泉は湯治場として賑わうようになった[11]。その後は、時代が変遷するに連れて半自炊・長逗留の湯治客は減少し、短期宿泊型の観光客が多くなっていった。それでも、群馬県の代表的な温泉の中で最後まで大勢の半自炊の湯治客を受け入れ続けたのは四万温泉であった。
源泉
泉質
硫酸塩泉(ナトリウム・カルシウム?塩化物・硫酸塩温泉[1][7][9][4])。低張性中性高温泉[9]。
トリチウム試験の限界値である50年より昔の湯が湧出している[1]。水源地域(三国山脈)の火山地帯に降った雨水が地下数十キロメートルの深部に浸透してマグマに触れることで温泉成分と熱を得ながら流れ、50年以上経って地表に湧き出している[9]。
備考
ひん岩の裂け目から湧出する[2]。
泉温は、43?82°C[2]。70?80°C(四万たむら)[9]。
群馬県の源泉実態調査において、県の源泉台帳に登録されている源泉は 42か所[1]。
湧出形態は、自然湧出が39か所[1]、掘削源泉が3か所で、掘削深度は100?300メートルと浅い[1]。
全体の湧出量は、毎分約3,500リットル[1]。平均pH値は7.7(※2001年度〈平成13年度〉調べ)[1]。
歴史
開湯伝説
坂上田村麻呂説
桓武天皇の治世 (737-806) に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討を行った時、奥州古道(国府街道)を国府[注 1]─渋川宿[注 2]─中之条─四万─木根宿─越後国浅貝宿[注 3]という経路で[10]移動しているが、四万の日向見(ひなたみ)で入浴したと伝えられており、これをもって四万温泉の開湯と考えられている[11][12]。時期を突き詰めるならば、平安京を出征した延暦20年2月14日(801年3月31日)から征討が終了したと考えられる同年9月27日(11月6日)までの最初の遠征と、延暦21年1月7日(802年2月12日)からアテルイが降伏した同年4月15日(5月19日)までの2度目の遠征の、いずれかの間の出来事である。
碓井貞光説
永延3年(989年、平安時代前期後半)[注 4]、頼光四天王(らいこう してんのう。源頼光の四天王)の一人に数えられる碓井貞光(うすい の さだみつ)は、越後国(現・新潟県)から木の根峠/木根峠(きのねとうげ)/木根宿峠(きのねしゅくとうげ)を経て生国である上野国(現・群馬県)に入り、当地で夜を明かすことになった[13][14][11][12]。夜もすがら、読経をしていて夢うつつになった夜半の頃、どこからともなく一人の童子が立ち現れて曰く、「汝が読経の誠心に感じて四万(よんまん)の病悩を治する霊泉を授く。我はこの山の神霊なり。」と[14][11][12]。然して貞光が目醒めると、神託のとおり湧き出る温泉を見付けたという[14][11]。係る吉事(よごと)に感じ入った貞光は、この地に一宇の堂を建立し、自らの守本尊(まもりほんぞん)の薬師如来を安置して「日向守貞光寺薬師瑠璃如来(ひゅうがのかみ さだみつじ やくしるりにょらい)」と号し[12]、温泉は「御夢想の湯(ごむそうのゆ)[gm 1]」と呼び[12]、地域は神託にちなんで「四万郷(しまのごう)」と名付けたとのことである[12]。また、貞光が日向守であったことから、四万温泉の開湯地とその温泉名を特に「日向見(ひなたみ)」および「日向見温泉」と呼ばれるようにもなった。
開湯以降
年表
古代
延暦年間(782-806年、奈良時代末期?平安時代初期) - 開湯伝説その1「坂上田村麻呂説」の時代 / 坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、日向見に立ち寄って入湯したと伝えられる。このとき開湯された源泉は現在の日向見地区にある「御夢想の湯」とされている。
永延3年(989年、平安時代前期) - 開湯伝説その2「碓井貞光説」の時代 / 碓井貞光が越後国から木根宿峠(現・木根宿ルート)を経て日向見に入り、源泉を発見したと伝えられる。この説でも開湯された源泉は「御夢想の湯」と比定されている。
中世
鎌倉時代 - この頃から知られていたという[3]。
天文年間 (1532-1555) の頃 - 関東管領職にあった上杉憲政がたびたび四万を訪れて入湯した[17]。
永禄4年(1563年、戦国時代末期)
真田勢(真田幸隆、信綱、昌幸など)を主とする武田信玄方の攻撃を受け続けていた上杉謙信方・斎藤憲広(斎藤越前守基国)の居城・岩櫃城が、家臣の内応もあって落城する。