囚人服(しゅうじんふく)は、囚人が着用するよう定められた服[1][2]。受刑者服[2]、獄衣[1]とも呼ばれる。囚人服は、アイデンティティの抑圧の究極例でもある[3]。囚人に一定の服を着せることは、監視の必要性や脱走への備えとして古くから行なわれてきた[2]。 漫画や映画において囚人服は白黒の縞模様でデザインされることが多く[4]、実際に欧米では、細い縦縞、あるいは太い横縞、あるいは片身代わり(左右非対称の柄)の使用例が見られる[2]。 囚人服は一般に粗末な布地と簡素な仕立てで作られるが、1957年に採択され、1977年と2015年に改訂された国連のガイドラインである国連被拘禁者処遇最低基準規則を踏まえて改善される傾向にある[2]。 国連被拘禁者処遇最低基準規則(1957年)[注 1]では、囚人の衣類について次のようなガイドラインを定めている[6]。規則17 オランダ政府による『望ましい監獄実務に関するハンドブック』(1995年)[7]は、上の (1) について衣類の身体保護機能に加え、社会的・心理的機能という観点を示し、十分かつ品位を保った衣類は被収容者の健康のみならず気力にも影響を与えると指摘したうえで、私服の着用、あるいは一般社会の衣類に近いデザインの制服の着用を勧告している。また (2) については衣類の乾燥を最も重要な問題としている。 『望ましい監獄実務に関するハンドブック』は他にも、囚人服は着用者の体型に合ったものであること、囚人服が外部社会の文化的慣習に従うことなどを求めている。例えば女性がズボンを着用しない社会において、女性受刑者がズボンの着用を強制させられるべきではないとしている。 律令時代の囚衣は半臂と股引の組み合わせであり、冠位十二階で最下層とされる橡墨衣(つるばみすみぞめ[8]、渋い薄墨色)で染められた[9]。鎌倉・室町時代は徒刑が廃れたため、囚衣に相当するものは見当たらない[9]。 江戸時代は藩によるが、男は半臂あるいは法被に股引、女は長衣か半纏で、浅黄色か柿色が多かった[2]。徒刑が用いられた場所では、作業しやすいよう袖口を三角形に絞った剥身屋半纏に股引という姿も見られた[9]。これら江戸時代の様式は明治初期も引き継がれた[2][9]。 1872年(明治5年)の監獄則で、獄衣は柿色(実際は赭色(あかいろ)と呼称)の短衣、窄袖、股引と定められ、白の垂領襟に獄舎名と囚人番号が墨書された[2]。1881年(明治14年)の改正監獄則は、既決囚の獄衣は赭色、懲治人(少年または唖者など)は縹色(実際は浅葱色と呼称)の筒袖とし、常衣は長衣、作業衣は短衣とした[2]。また、女服は婦徳を考慮してか全て長衣とし[9]、自殺防止のため非常に短くされた半幅帯を「貝の口」という結び方で締め、外襟の白布に番号を墨書した[2]。1908年(明治41年)の監獄法は甲衣(一般収容者用)と乙衣(少年受刑者・1級受刑者用)、および各々の男子用・女子用を定め、受刑者は同じものを2着渡されて常衣・作業衣として使い分けた[2]。男子用は上衣・ズボン・シャツ、女子用は上衣・下衣・襦袢からなり、それぞれ冬季には綿入れのチョッキ・メリヤスのシャツ・股引が用意された[2]。この間、獄衣の赭色という基調は長く続いたが[9]、1933年(昭和8年)の行刑累進処遇令によって獄中での行状の良否に応じた衣類の区別が導入され[2]、1級は霜降り、2・3級は浅葱色、4級は赭色とされ、後二者は長く「青纏」(あおてん)、「赤纏」(あかてん)と愛称されることになる[9]。
概要
国際的ガイドライン
(1) 私服の着用を許されない各被収容者は、気候に適し、かつ良好な健康を保つのに適した衣類一式を提供されなければならない。この衣類は、決して被収容者の品位を傷つけ、または恥辱感を与えるものであってはならない。
(2) すべての衣類は、清潔で適切な状態におかれていなければならない。下着は、衛生を維持するために必要な頻度で交換され、洗濯されなければならない。
各国の囚人服
日本剥身屋半纏