嘉義農林学校
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嘉義農林学校
英称Kagi Agriculture and Forestry Public School
公用語表記嘉義農林學校
創立
1919年
所在地 台湾嘉義庁
初代校長柳川鑑藏
廃止1945年
後身校 国立嘉義大学
同窓会
嘉義農林学校の校舎

嘉義農林学校(かぎのうりんがつこう、英語:Kagi Agriculture and Forestry Public School、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:嘉義農林學校)は現在の国立嘉義大学の前身である、1919年4月日本統治下の台湾において設立された旧制実業学校である。略称は嘉義農林、嘉農、KANO。
概要

日本統治時代の1919年4月に旧制実業学校が設立された。当初は「台湾総督府嘉義農林学校」と称した。農学科及び林学科が設置され、3年制であった。1926年に5年制に変わった。1941年に4年制となる。1943年に5年制が回復したし、農学科のみ設置された。1945年に第二次世界大戦後、日本の敗戦に伴い中華民国政府に移管された。校地・校舎は現在の「国立嘉義大学」に継承された。

1928年に嘉義農林学校野球部(中国語版)が創部された。始めの成績はこれといったものはなかったものの、その後名将近藤兵太郎監督の下、チームが頭角を現し始めた。1931年全国中等学校優勝野球台湾大会に初出場して優勝を勝ち取り、日本本土の夏の甲子園大会に行く機会を得た。第17回全国中等学校優勝野球大会に出場し、一回戦では空回りしたが、二回戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え、一躍注目チームとなる。準々決勝の対札幌商戦では、19 - 7で圧勝。準決勝の対小倉工戦も嘉農は10-2で圧勝。最後の決勝の対中京商戦で嘉農は0-4で負けた。決勝戦では負けたにもかかわらず「天下の嘉農」と褒めたたえられることになる。準優勝を獲得したのは、台湾からは唯一のチームであった。嘉義農林学校野球部が甲子園で準優勝をした実話が「KANO 1931海の向こうの甲子園」というタイトルで台湾で映画化され、2014年2月27日より公開された。[注釈 1][注釈 2]
歴史

1919年4月には台湾総督府嘉義庁の山仔頂て「嘉義農林学校」が設立され、農学と林学の2つの学科を設置した。1921年には行政区画変更に伴い[注釈 3]台南州立嘉義農林学校」と改称された。1938年7月に学校が下路頭に移転された。1941年に修業年限4年と変わり1943年に修業年限は5年に回復し、農学科が設置された。

1945年に日本の敗戦に伴い中華民国に接収が行われると10月25日に「台湾省立嘉義農業職業学校」と改称され、修業年限は高級と初級で各3年であった。1947年8月に森林科が設置され、1948年8月に園芸科と農産製造科が設置された。1951年7月に「台湾省立嘉義高級農業職業学校」と改称し、1952年8月に畜牧獣医科が設置された。1954年8月1日に「示範農学校」て選ばれ「台湾省立嘉義示範高級農業職業学校」と改称された。1962年7月に農業土木科が設置された。

1965年3月に学校が昇格し、「台湾省立嘉義農業専科学校」と改称され、5年制の課程が設置された。1971年に2年制の夜間部を設置。1975年に全日部にも2年制課程を設置。1981年7月1日に「国立」に移管し、「国立嘉義農業専科学校」と改称された。1997年7月1日に「国立嘉義技術学院」へと昇格した。2000年2月1日に「国立嘉義師範学院」と合併し「国立嘉義大学」と改称された。
校歌

嘉義農林学校の校歌岡野貞一が作詞し、高野辰之が作曲した。嘉義農林学校校歌作詞:岡野貞一 / 作曲:高野辰之一、新高山の西 沃野千里要路四通の 直中占めて嘉義よ?史に 輝く処嘉農が瑞穗の 旗立て立つ地二、八掌溪の北 天恵充てり小田に?金は 再び稔り野にも山にも 幸堆高しこれ吾が嘉農を 迎えて待つ地三、浮べる雲の富 省り見ずて汗に生くるが 我等の願い一木植うるも 一粒撒くも誠の吹息を こむるが誓い四、見よ 五年の業 学び終へて胸に燃えたつ 理想を秘め鋤と?とを 宝庫の鍵と微笑み 地に立つ 我等の姿
教学組織
校長

校名代氏名任期
台湾総督府嘉義農林学校
(1919年-1921年)
準備主任藤黒総左衛門1919年4月 -- 1919年5月
初代柳川鑑蔵1919年5月 -- 1921年4月
台南州立嘉義農林学校
(1921年-1945年)
1921年4月 -- 1926年4月
第2代樋口孝1926年4月 -- 1931年3月
代行中林直俊1931年3月 -- 1931年4月
第3代島内庸明1931年4月 -- 1937年4月
第4代田村朋一1937年4月 -- 1940年4月
第5代鹿討豊雄1940年4月 -- 1943年4月
第6代西崎茂1943年4月 -- 1944年2月
第7代服部正夷1944年2月 -- 1945年10月

教員

近藤兵太郎:嘉義農林学校野球部(中国語版)教練

主な卒業生

呉明捷野球選手

呉昌征プロ野球選手

萩原寛(呉新亨):プロ野球審判員・プロ野球選手

今久留主淳プロ野球選手

今久留主功プロ野球選手

脚注[脚注の使い方]
注釈^ KANO公式日本語サイト
^日本と台湾 甲子園秘話
^ 1920年に嘉義庁が台南州嘉義郡嘉義街と改称された。1930年に市制施行し、嘉義街が嘉義市に変わった。

出典
外部リンク

国立嘉義大学


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