嘉数の戦い
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嘉数の戦い

嘉数高台公園にある京都の塔と嘉数の塔
戦争:太平洋戦争沖縄戦
年月日:1945年4月8日(7日)?23日(24日)
場所:沖縄県、現宜野湾市
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
藤岡武雄中将第10軍団
:S・B・バックナー 第24軍団:?
戦力
第62師団独立混成旅団:約6万第24軍団
及び第27師団:合計18万
損害
戦死傷64,000(48,000とも)戦死傷24,000(12,000とも)
沖縄戦


富山丸

対馬丸

十・十空襲

天号作戦

九州沖航空戦

沖縄戦

菊水作戦

坊ノ岬沖

嘉数

シュガーローフ

国吉

義号作戦

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嘉数の戦い(かかずのたたかい)とは、太平洋戦争末期の沖縄戦において、嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いである。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどの激戦であった(前田の戦い他を含むことがある)。日本軍は低地に「反斜面陣地」を構築して米軍に劣る火力をカバーし、頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。目次

1 地理

2 背景

3 戦闘開始

3.1 嘉数においての勢力


4 序盤戦

4.1 4月8日

4.2 4月9日

4.3 4月10日

4.4 4月12日


5 中盤戦

5.1 4月13日


6 4月16日

7 終盤戦

7.1 4月19日

7.2 4月20日

7.3 4月21日

7.4 4月22日

7.5 4月23日

7.6 4月24日


8 嘉数の対戦車戦

9 嘉数戦の結果

9.1 嘉数戦の現在


10 現在の嘉数高地

11 両軍の損害

12 関連項目

13 外部リンク

地理

嘉数高台は、沖縄本島の中心部から南に下った現在の宜野湾市に位置する。戦時中は第七〇高地、第九二高地と命名されていて、第七〇高地を西嘉数高地、第九二高地を東嘉数高地と呼称していた。
背景

日本軍主力は沖縄本島南部地域に陣地を置き、主力部隊も南部地域に配置されていた。しかし、高所が南部地域の北側に多かったため、主防御陣地は沖縄本島中心から南部地域の間に築かれている。これが結果的に米軍の南部地域進行を阻む要因ともなった。南部は北部に比べて平坦な地形が多く、また陣地を構築できる高地は貴重であったため、南部のほとんどの高地には日本軍の陣地が築かれていた。そのため、ほとんどの激戦地域は南部地域の高台、高地周辺に集中しており、西原の戦いや前田の戦い、幸地の戦いといった他の激戦地も同様の地形が見られる。

日本軍の部隊配置は、「南部の海岸線は崖が多いのでアメリカ軍は北部から地上進攻してくるだろう」との予想に基づくものと思われる。
戦闘開始

戦闘は4月8日(7日)から16日間にわたって展開され、その間の両軍の戦死傷者は合わせて約10万にのぼった(諸説あり)。アメリカ軍は4月9日には嘉数を占領することを目標としていたため、損害を省みず続々と部隊を投入した。このことが激戦になった一因と思われる。また、嘉数戦では日本軍最後の対戦車戦闘での勝利が記録されている。この項では、嘉数戦の開始を一般的に言われている4月8日からとし、日付は主な行動が展開された日によるものとする。また読みにくくなるのを避けるため、戦闘経過を序盤中盤終盤に分けて記述した。
嘉数においての勢力

日本軍

主な
師団:第62師団独立混成旅団(師団長藤岡武雄中将)

第62師団所属の旅団(連隊):歩兵第63旅団(旅団長中島徳太郎少将)、歩兵第64旅団(旅団長有川主一少将)等。62師団の歩兵大隊は約1233名であった。

歩兵第63旅団:所属部隊(中島徳太郎少将)

独立歩兵第11大隊(三浦日出四郎大佐)

独立歩兵第12大隊(賀谷興吉中佐)注:嘉数戦までに行われた遅滞作戦により戦力半減。

独立歩兵第13大隊(原宗辰大佐)

独立歩兵第14大隊(内山幸雄大尉)注:大隊長に大尉が当てられることは珍しい。


歩兵第64旅団:所属部隊(有川主一少将)

独立歩兵第15大隊(飯塚豊三郎大佐)注:嘉数戦に参加?

独立歩兵第21大隊(西林鴻介大佐)注:嘉数戦に参加?

独立歩兵第22大隊(磯崎幾中佐)注:嘉数戦に参加?

独立歩兵第23大隊(山本重一少佐)


その他

第62師団輜重隊



32軍直轄部隊

野戦高射砲第81大隊

独立臼砲第1連隊(入部兼廣中佐)

独立速射砲第22大隊(高橋巖大尉)

独立機関銃第4大隊(陶山勝章少佐)


その他

歩兵第22連隊(吉田勝大佐)

歩兵第32連隊(北郷格郎大佐)

独立第2大隊

独立歩兵第272大隊(下田直美大尉)

独立歩兵第273大隊(楠瀕一珍大尉)ほか。


通常、大隊の指揮官は中佐か少佐である。上のように第62師団の所属大隊長には少なからず大尉が当てられており、指揮官不足が顕著だったことが伺える。歩兵大隊以外の大隊長に大尉が当てられることは異例であった。

アメリカ軍

第24軍団

第96師団。第7師団。歩兵383連隊(指揮官メイ大佐)、第381歩兵連隊ほか。

第24軍団外:第27師団。第105歩兵連隊、第106歩兵連隊、第102工兵大隊ほか。



序盤戦

嘉数戦は4月8日(7日)から始まったとされることが多いが、それに先立つ5日には、嘉数戦の序章ともいえる戦いが、北隣の85高地にてアメリカ軍歩兵383連隊(指揮官メイ大佐)と日本軍独立歩兵第13大隊(指揮官原宗辰大佐)の間に始まっている。この戦いが皮切りとなり、ついに嘉数で日米両軍の主力が衝突することとなる。
4月8日

4月7日の85高地の戦いにおいて大きな被害を受けた日本軍の独立歩兵第13大隊が後退し、嘉数の主力と合流する。この日は朝早くから日本軍の南部最前線の全ての陣地(宇地泊-嘉数-我如古-南上原-和宇慶線)がアメリカ軍の攻撃を受け、激戦を繰り広げている。この日、アメリカ軍歩兵383連隊の指揮官メイ大佐は、指揮下の部隊に「9日までには嘉数を占領せよ」と命令を下した。
4月9日


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