嘉手納基地
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嘉手納飛行場
Kadena Air Base
FAC6037
IATA: DNA - ICAO: RODN
概要
所在地沖縄県中頭郡嘉手納町沖縄市・中頭郡北谷町[1]
種類軍用飛行場
運営者アメリカ空軍
開設1945
所在部隊アメリカ第5空軍第18航空団ほか
標高44 m (144 ft)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯26度21分06秒 東経127度46分10秒 / 北緯26.35167度 東経127.76944度 / 26.35167; 127.76944
公式サイトhttps://www.kadena.af.mil/
地図
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滑走路

方向 ILS 長さ×幅 (m) 表面
05L/23R 無 3,688×91 アスファルト
05R/23L I 3,688×61 アスファルト

リスト
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嘉手納飛行場の空中写真。(1977年撮影の14枚より合成作成)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成日本陸軍「中飛行場」(米軍撮影1945年1月3日)。上陸から7か月後の米軍嘉手納基地・読谷補助飛行場ボーロー飛行場写真(1)「道の駅かでな」から見える嘉手納基地。写真(2) 嘉手納基地沖の太平洋上、SH-60Bシーホーク対潜ヘリコプターのAGM-119ペンギン対艦ミサイル発射訓練。2002年7月23日。写真 (3) 嘉手納基地に配備されているF-15C戦闘機

嘉手納飛行場(かでなひこうじょう)は、沖縄県中頭郡嘉手納町沖縄市・中頭郡北谷町[1]の広大な面積に拡がる極東最大のアメリカ空軍基地。嘉手納空軍基地(Kadena Air Base=英語での正式名)、あるいは単に嘉手納基地と呼ばれることも多い。1945年4月、アメリカ軍やイギリス軍からなる連合国軍が沖縄戦で旧日本陸軍中飛行場を接収し、その後さらに拡張した基地である。
概要
施設内容

3,700mの滑走路2本を有し、約100機の軍用機が常駐する極東最大の空軍基地、在日空軍最大の基地である。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。かつてはスペースシャトルの緊急着陸地に指定されていた。

第5空軍の第18航空団の拠点としてだけではなく、居住地区には、学校、図書館、野球場、ゴルフ場、映画館、スーパーマーケット等、多種の米軍向け支援施設を包有し、国道58号西側の嘉手納マリーナ地区は、米軍人等の福利厚生施設でもある。

場所:嘉手納町(水釜、兼久、嘉手納、屋良、野国、国直、東、野里)沖縄市(諸見里、山内、森根、白川、御殿敷、宇久田、大工廻、嘉良川、上地)北谷町(伊平、浜川、上勢頭、下勢頭、砂辺)那覇市(宮城)

面積:19,855,000m2

地主数:11,450人[2]

管理:アメリカ空軍

用途:飛行場

管理運営

管理部隊名:第18航空団

使用部隊名:第18運用群、第18任務支援群、第18整備群、第18医療群、第18施設群、在沖米海軍艦隊活動司令部、第7艦隊哨戒飛行隊、等
地理

嘉手納町の面積の82%が嘉手納飛行場や嘉手納弾薬庫地区に占有されており、現在、嘉手納町の住民は残り18%の住居区に暮らす。県道74号沿いに「道の駅かでな」があり、滑走路の北東側や戦闘機の駐機場周辺を見ることができる。嘉手納の歴史を紹介する常設展示もある。

東京都品川区にほぼ匹敵する面積(東京ドーム約420個分)を、沖縄本島中部に占めている。

嘉手納飛行場が占める面積のうち、9割以上が私有地である。沖縄戦の占領以降も土地の強制接収で拡大し、地主数も11,450人になる。このため年間239億円を超える賃借料が日本の税金から土地所有者に支払われており、大きな収入源となっている。

西海岸側の低地一帯は「北谷ターブックヮー」と呼ばれ、県下に知られた美田であったが[3]、ほとんどの平地を軍用地として接収され、多くの住民が土地を失うとともに、北谷村も嘉手納飛行場によって南北に大きく分断されたため、1948年12月4日、北部側の野国、野里、屋良、嘉手納地域が嘉手納村 (現在の嘉手納町) として分村することとなった。現在、嘉手納町の面積82%がアメリカ軍基地に占有されており、18%の民間地に住居区域が散らばっている[4]

嘉手納飛行場の名称

嘉手納飛行場は通称「嘉手納基地」ともよばれるが、北側に隣接する嘉手納弾薬庫とは異なる。また、米軍占領下で沖縄に配備されたメースBの4カ所のミサイル基地が嘉手納サイトとよばれたのは、メースの制御司令塔が嘉手納基地内にあったためであり、実際は嘉手納基地からは離れている。

施設番号沖縄返還協定での名称旧名称
FAC6022嘉手納弾薬庫地区
FAC6037嘉手納飛行場キャンプ・サンソネ
陸軍住宅地区

FAC6038嘉手納住宅地区返還

沿革
旧日本陸軍「中飛行場」として

1944年(昭和19年)4月:日本軍は
北飛行場の補助として北谷村、屋良、嘉手納、東、野里、野国、国直にまたがる約47万3170平方メートルの広大な土地を緊急に強制接収し、5月から昼夜兼行で中飛行場の突貫工事を進めた。

1944年(昭和19年)9月:大日本帝国陸軍航空隊の中飛行場として開設される。

1944年(昭和19年)10月10日:十・十空襲で施設の多くが破壊された。

1945年(昭和20年)4月1日:アメリカ海兵隊の無血上陸で午前中に占領され、その日のうちに修復されアメリカ軍の臨時飛行場として使用可能な状態となる。

米軍嘉手納基地として

1945年(昭和20年)4月1日:占領後、随時整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成、本土爆撃のための B-29 等大型爆撃機の主力基地として使用、同年にキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域が設置される。

1954年(昭和29年)2月5日日本航空の東京-沖縄線が就航(週2往復)。那覇空港の民間航空地区が工事中だったため、11月まで嘉手納飛行場が沖縄側の空港として使用された[5]

1965年(昭和40年)7月29日グアム台風を避けるため前日から嘉手納に展開していたB-52爆撃機25機が、同日北ベトナム空爆に出撃。以降、成り行きで同機の飛来が定着、嘉手納はアメリカ政府の主張による「補給基地」から、実質的な「出撃基地」のひとつとなる

1967年(昭和42年)5月:4,000m級の滑走路2本が完成。

1970年(昭和45年):B-52をグアムのアンダーセン空軍基地へ移管。


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