嘆きの壁事件
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暴動による焼き打ちに遭ったユダヤ人の家事件当時のパレスチナ領土

嘆きの壁事件(なげきのかべじけん)は、1929年8月にイギリス委任統治領パレスチナエルサレムにある嘆きの壁で発生したアラブ人ユダヤ人の武力衝突。この事件がきっかけとなって約1週間の間にヘブロンヘブロン事件)やツファット(ツファット・ポグロム(英語版))などパレスチナ各地でアラブ人による一連のユダヤ人襲撃が起こった。
事件の背景
移民の流入

19世紀中頃から興隆したシオニズム運動により差別に苦しむ離散ユダヤ人の間ではパレスチナへの移民が増えていた。ドレフュス事件などがきっかけとなり、パレスチナにユダヤ人の国を作ろうという動きは強まっていた。1917年バルフォア宣言イギリスの後押しを受け、ユダヤ人の国家建設は一段と現実味を増した。バルフォア宣言後、9年間で10万人のユダヤ人がパレスチナへ入植している。パレスチナの土地を所有するユダヤ人も増え、ヘブライ大学が建設された[1]。世界各国の同胞から支援を受け、政治や経済に多大な影響力を持つロスチャイルド家など強力な後ろ盾を持つユダヤ人入植者の急増に、アラブ人は危機感を募らせていた。
嘆きの壁アミーン・フサイニー (1895年-1974年)

西暦70年ローマ帝国によってユダヤ教の礼拝地であるエルサレム神殿は破壊された。破壊を嘆くという意味で名づけられた嘆きの壁は、現在も残る神殿の残骸である。西側の外壁であるため西壁 (Western Wall)とも呼ばれ、祈りの場所となっている。エルサレム神殿は神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)と呼ばれ、ユダヤ教における聖地である。1967年第三次中東戦争で、神殿の立つエルサレムの旧市街地を占拠するまでの約1900年間、ユダヤ教徒は自由に嘆きの壁に来て祈りを捧げることはできなかった。

一方、イスラム教徒672年アル=アクサー・モスクを、692年には岩のドームを神殿跡に建て、同地をマッカマディーナに次ぐイスラーム教の3番目の聖地とし、ここに現在まで続く嘆きの壁をめぐるユダヤ教徒とイスラム教徒との紛争のタネが出来た。

1928年9月、男性と女性の祈祷者を分ける習慣のあるユダヤ教徒達は、嘆きの壁で行うヨム・キプルの祈りで男女の境についたて(メヒッツァー)を置いた。これをイスラム教徒はオスマン帝国時代に定められた嘆きの壁区域における「建設」禁止の項に反すると抗議した。抗議を受けイギリス当局はこれを撤去するよう命じたが、ユダヤ人側もまた聖なる日を汚されたと憤慨した[2]。また、エルサレムの大ムフティー(イスラム法権威者)であるアミーン・フサイニーパレスチナに住むアラブ人、世界のアラブ諸国中に「ユダヤ人達がアル=アクサー・モスクを占拠しようとしている」というビラを配布し扇動活動を行った。
ベタルゼエブ・ジャボチンスキー (1880年-1940年)

1925年ロシア系ユダヤ人のゼエブ・ウラジミール・ジャボチンスキーは、修正主義シオニズム連合(Union of Revisionist Zionists、Hatzohar)を設立した[3]。修正主義シオニズムはヨルダン川両岸をユダヤ国家とする大イスラエル主義を掲げ、ヨーロッパから大量のユダヤ人移民を受け入れ、結果、必要となってくる防衛のためにユダヤ人軍事組織の結成を目標としていた。

ジャボチンスキーは修正主義シオニズム連合設立の2年前、1923年ラトビアリーガでベタル (BetarまたはBeitar)という青年運動組織を作っていた。ベタルは、1920年のテルハイにおけるアラブ人からの攻撃で命を失ったユダヤ人自衛のシンボルであるヨセフ・トルンペルドールの軍団という意味で、そのヘブライ語頭文字である。また2世紀バル・コクバの乱で最後まで立っていた砦の名前でもある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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