営団3000系電車
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営団地下鉄3000系電車
営団3000系電車
(1988年 東武伊勢崎線西新井駅付近)
基本情報
運用者帝都高速度交通営団
製造所汽車製造東急車輛製造近畿車輛
川崎車輛日本車輌製造日立製作所
製造年1961年 - 1971年
製造数304両 + 代替車1両
運用開始1961年3月28日
運用終了1994年7月23日[1]
投入先日比谷線
主要諸元
編成8両編成
過去2両→4両→6両編成
軌間1,067 mm狭軌
電気方式直流1,500V
架空電車線方式
最高運転速度日比谷線 70 km/h (運用当時)
東武線内 95 km/h
東急線内 90 km/h
設計最高速度100 km/h
起動加速度4.0 km/h/s
減速度(常用)5.0 km/h/s
減速度(非常)5.0 km/h/s
車両定員先頭車120(座席48)人
中間車128(座席56)人
9次車のみ座席55人
自重31.0 - 33.0 t
全長18,000 mm
全幅2,790 mm
全高3,730 mm (1 - 7次車)
3,875 mm (8・9次車)
3,995 mm (パンタグラフ付き車両全車)
床面高さ1,125 mm
車体セミステンレス車両
台車アルストムリンク式 FS-336形
ミンデンドイツ式FS-348形→SUミンデン式FS-510形
主電動機直流直巻電動機 MB-3054-A形・AE形
主電動機出力75kW×4 (端子電圧375V)
駆動方式WN駆動方式
歯車比98:15=6.53
編成出力2,400 kW
制御方式バーニヤ抵抗制御
制御装置三菱電機 ABFM-108-15MDH
制動装置ATC連動電磁直通ブレーキ発電ブレーキ(HSC-D形)
保安装置WS-ATC
東武形ATS東急形ATS
一部編成にはATO(試験用)
備考上記データは昭和50年代のもの。
車両定員は1965年(昭和40年)の改訂前は先頭車140人(座席52人)、中間車150人(座席60人)[2]
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営団3000系電車(えいだん3000けいでんしゃ)は、1961年昭和36年)から帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄)が日比谷線用に導入した通勤形電車である。

日比谷線の開業に合わせて製造された車両で、1971年(昭和46年)までの間に305両(事故代替車を含める)が製造された。日本初のATC導入車である。
概要

本形式は営団地下鉄で初めて相互乗り入れを行うことから、東武鉄道東京急行電鉄との3事業者で作成された「2号線車両規格」[3][注 1]規格内で協議の上で設計・製造が行われた。基本的には高性能車である丸ノ内線300形を発展させた車両とし、相互直通運転を行うことから地上線と地下鉄線両方の性能を満足させるような車両とした[4]

従来、営団の車両は検修時を考慮して単車(1両)での走行を基本としていたが、本形式より2両を1単位(ユニット構成)として、将来の増結時には中間車を連結していく方式を採用した。落成当初は2両編成だが、その後4両・6両・8両編成へと増結されて増え続ける輸送需要に対処した。当初は各形式を個別で呼称しており、これらを「3000系」と呼称するようになったのは、千代田線6000系誕生以降である[5]

車体長18,000mm、車体幅2,790mmの両開き片側3扉構造は丸ノ内線車両と同じ形態だが、軌間1,067mm、さらに架空電車線方式であるため車高を高くしている。扉・窓配置はdD3D3D1(先頭車)で、同じ18m車でも丸ノ内線や都営浅草線の車両とは異なり、編成全体で見て客扉が等間隔になる配置である。

特徴としては超多段抵抗制御器(バーニア制御)と発電ブレーキを採用し、ほとんどショックのない滑らかな高加減速性能(起動加速度・減速度ともに4.0km/h/s)を実現した。特に起動加速度4.0km/h/sは、日比谷線直通に運用されていた東急7000系とともに、関東の電車においては現在に至るまで最大の値である[注 2]

1次車16両は営団地下鉄の購入であるが[6]、2次車以降はすべて信託車両で導入した[7][8][9]。信託期間は8・9次車の場合、5年度間(8次車は1968年度から1972年度、9次車は1971年度から1975年度)であるが、期間を待たず8次車(6両)は1970年度・1971年度に一部繰上げ支払い(各3,580万円)、9次車(70両)は1972年度に1973年度 - 1975年度の割賦額(14億6,580万円)の繰上げ支払いをしており、同年度末までに信託車両は解消された[9]
構造東横線に乗り入れる3000系。運行番号表示は札式。

本形式は「デザイン」、「乗り心地」を最も重視した車両として製作された[10] 。前頭部は丸みをもたせ、デザイン面で郊外線に乗り入れる車両としてスマートさを感じさせるものとし、さらに乗務員の視認性向上のため曲面ガラスを使用した。この意匠は後に導入された日比谷線用車両にも引き継がれている。車体裾もデザインに合わせて絞った構造とし、このために台枠が特殊な構造となり、「爆裂加工」と呼ばれる特殊な工法が用いられた[10]。そのデザインから「クジラ」、特に「マッコウクジラ」という愛称もあった[1]
車体

車体は普通鋼製として塗装する方式、セミステンレス製、アルミ合金製の3種類から検討した。アルミ製は時期尚早との判断がされ、コスト高とはなるが、セミステンレス製は塗装職場が不要となり、工場在場日数の減少などメリットが多いことからセミステンレス車体(骨組みは普通鋼製)を採用した。

ステンレス車体は歪みを目立たなくするための「コルゲート」と呼ばれる波板を取り付けるが、これには当時世界的にも有名であったアメリカバッド社の方式ではなく、営団独自の汽車製造のものを採用して豪華さを演出したものとした[11]

1次車では前面に側面乗務員ステップ一体形のスカートが設置され、連結器はスカートのカバー内に収容されていた。しかし、手間がかかることから1963年(昭和38年)初頭頃から連結器カバーは外され、スカート自体も同年9月には撤去された。撤去後は側面に乗務員室用ステップが別途付けられた。
車内

内装は、車体同様に塗装工程を省略するため化粧板構成とした。側面は濃いクリーム色メラミン樹脂化粧板、天井は白色のポリエステル樹脂化粧板を使用した(3次車から天井もメラミン樹脂製)。初期車はエ字形の「パネルエッジ」を使い、天井板を隙間に差し込む事でネジを使わない構造としたが,保守上の問題から増備車では押し面を使ったネジ止めに変更されている。

客用ドアは両開き構造で、当初は室内側も化粧板仕上げとした。戸袋窓は省略されている。床材は灰色のロンリウム材を敷いたもので、騒音防止の観点から主電動機点検蓋は省略された。ただし、主電動機の保守の都合から後年の更新時に設置された。

座席はエンジ色のモケットで、上部には郊外からの長距離乗客を考慮して営団車両では初めて座席上部全長に荷棚を設置した。


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