喜多院
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この項目では、川越市の喜多院について説明しています。その他の喜多院については「喜多院 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

喜多院
慈恵堂(県指定有形文化財)
所在地埼玉県川越市小仙波町1-20-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度55分3秒 東経139度29分20.3秒 / 北緯35.91750度 東経139.488972度 / 35.91750; 139.488972座標: 北緯35度55分3秒 東経139度29分20.3秒 / 北緯35.91750度 東経139.488972度 / 35.91750; 139.488972
山号星野山[1]
宗派天台宗[1]
本尊元三大師
創建年天長7年(830年[1]
開基円仁淳和天皇(勅願)
正式名星野山 無量寿寺 喜多院
別称川越大師
札所等関東三十六不動 第28番
小江戸川越七福神 第3番   
文化財客殿・書院・職人尽絵図屏風ほか(重要文化財)
慈恵堂・多宝塔(県指定有形文化財)
公式サイト ⇒川越大師 喜多院
法人番号3030005008082
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境内の五百羅漢像

喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。小江戸川越七福神めぐりの第3番で大黒天を祀る。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れる[注釈 1]
概略

喜多院はかつての小仙波村に属し、武蔵野台地の東端、川越城の南に位置する[2]
歴史

平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が天台宗の教えを東国に広めるため[注釈 2]に無量寿寺として開創したのが始まりとされる[3]。当時の無量寿寺は阿弥陀如来を本尊として、不動明王毘沙門天を脇侍として祀った[3]。その後、平将門の乱比企の乱によって、無量寿寺は衰退する[4]

その後、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に、伏見天皇天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に勅願寺無量寿寺の再興を命じる。関東天台宗の本山とした[5]。上代文学研究者の山野清二郎は、二度の蒙古襲来によって北条執権に対する不満が高まっており、承久の乱以来失墜していた朝廷・公家の権威と存在感の回復を示すためと推測している[6]。また尊海は成田氏の助力を受け、まず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるためとして、1301年(正安3年)後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられた[5]。その後、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立した[5]後奈良天皇からは「星野山(現在の山号)」の勅額を賜るが、戦国時代後北条氏扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年 (天文6年)に炎上し、寺勢も衰退した[7]

慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。

なお、永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。

「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。

越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝矩から松平直侯まで5人)のもある。
喜多院ゆかりの人物
慈恵大師良源

912年(延喜12年)?985年(永観3年)喜多院の通称「川越のお大師さま」は、平安時代の僧侶「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」のことをいう。

慈恵大師は、比叡山の復興、衆僧の指導、修学の奨励、規範の確立などに務められ、966年(康保3年)に55才の若さで、第18代天台座主に就任した。1月3日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれている。

慈恵大師の母が、観音様に祈願をして大師を授かったことから、幼名を「観音丸」と言い、このことから後に、大師は観音さまの化身・生まれ変わりと信仰された。また、円融天皇の時代、修法中の慈恵大師の姿が、不動明王に見えたと伝えられており、このことから不動明王の化身とも云われている。

このように、慈恵大師良源は一人の高僧というだけではなく、仏様(観音様)として信仰されており、喜多院の本堂(慈恵大師堂)では中央に慈恵大師良源の尊像を如意輪観音として祀り、左右にお不動様を祀っている。なおこの喜多院の本堂だが、座って耳を澄ますと、何処からともなく波の音が聞こえるという言い伝えから「潮音殿」とも呼ばれている。
建築物

客殿(
重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。


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